オノマトペ
「日本語にはオノマトペが多すぎる」
憤懣やるかたない、といった声が聞こえてきて、塔子は思わず採点中の宿題から顔をあげた。向かい側に座って参考書に取り組んでいたはずの杏奈は、それを待っていたように畳み掛ける。
「そう思わないトーコさん!? ばんばんとか、がんがんとか、ごんごんとか! わたしはどれでも同じだと思うんだけど、点々をつけるつけないで、かなりニュアンスがちがうし!」
杏奈に名前を呼ばれると、それが自分のものではないような、新鮮な感じをいつも受ける。発音が間違っているというのではなく、ほんの少しだけアクセントの位置がちがうのではないかと塔子は推測していた。
いつかずっと先にこの頃の杏奈のことを思い出すとしたら、この声のこの呼び方から記憶の再生は始まることだろう。少々乱暴な言葉の調子とは裏腹に、こちらを真面目な顔で見つめている教え子のことを。
先ほどまで解答用紙に集中していたせいか、言葉が耳に入って意味をなすまでに少し手間取った。意識が現実に焦点を結ぶ間、まるでズームアウトするように周囲が目に映る。
夏も終わりに近づいた午後、広くきれいに片付いた居間の隅では扇風機が絶え間なく首を振っている。目の前の出窓からは杏奈の頭越しに、秋に向けて透明になりつつある空と、そこにぐんぐん伸びてゆく飛行機雲が見えていた。
「ああ、擬音語のこと?」
使われた例からやっと思い当たった塔子が聞くと、うん、と杏奈は頷いた。頭の動きにつられてポニーテールも上下にはねる。しかし返事の後は突然投げやりな態度になって、机の上にうつ伏せると顔をゆがめてだるそうに呟いた。
「あーつーいー」
「そうかな、だいぶ涼しくなってきたと思うけど?」
「トーコさんにはわかんないよー温度とかじゃなくてね、日本はね、この湿度がイヤ。体中がべとべとする感じがもうだめ。もうほんとにだめ」
少々オーバーだが、彼女がそう言うのも無理はないのかもしれなかった。杏奈は筋金入りの帰国子女だ。人生のおよそ半分が外国生活で占められている。
塔子と杏奈の母は高校時代からの親友だった。塔子の母によれば、杏奈の母が妊娠したとき、父親は数年後の外国転勤を見越して「はいからな名前」を娘に付けたらしい。そして予想通りというか予定通りというか、杏奈は小学校に入ってすぐに外国に引っ越した。
そのまま向こうで七年過ごし、帰国したのが今年の夏。
中学二年の二学期から転入する娘のために、杏奈の母が親友の娘であり文系女子大生の塔子に家庭教師を依頼したのは、そのすぐ後のことになる。
頼まれた内容は、おもに国語の勉強を見る、ということだったので、初対面の際、杏奈が日本語を充分しっかり話せるということに、塔子は内心胸を撫で下ろした。たしかに読み慣れてはいないので、読解などに改善の余地はまだある。それでも流暢に喋れるのだから、コツをつかんでしまえば一気に楽になれるはずだ。
それまで日本語を嫌わないでいてさえくれれば大丈夫だ、と塔子は思っている。できる限り、納得してくれるまで疑問に付き合うようにしているのはそのためだ。
『オノマトペ』
それが今日の問題らしい。塔子はなるべくにぎやかな情景を頭に浮かべた。夏祭り。それを文章に直してみる。
……どーんと夜空に大輪の花火がひらく。ざわざわと休みなく行きかう人々の隙間を縫うように、きゃらきゃら笑いながら浴衣の子どもたちが走る。ざりざりと雑音を交えつつ、スピーカーから高く低く流れる盆踊り。手にさげたヨーヨーを気まぐれにぱんぱんとつけば、かしゃかしゃと水の揺れる音。どこか近くで、ぽんっ、とラムネのビンが開けられて、しゅわりと泡がこぼれた……
確かに日本語は擬音語にあふれている。
納得しつつ、塔子は、日本の夏にはオノマトペが似合う、と関係ないことまで考えた。
「うん多いね」
「そうだよねー」
ぐったりとしたまま、杏奈が浮かない声で相づちを打った。
杏奈は塔子より七つ年下だ。自分がそのぐらいの年齢だったときを思い出そうとすると、塔子はいつもくすぐったいような恥ずかしさに襲われる。とにかく言えることは、塔子は彼女ほど外見も中身も大人びていなかった、ということだ。
その杏奈が沈んだ顔をしている。いつもは努めて人に弱みを見せないようにしているというのに。こんな風にだらだらしているのも彼女らしくない。何かが、どうしようもなく、気にさわっているのだろう。
きっとそれは言うのをためらってしまうくらい些細なことなのだ。
けれど、小さな嫌なことの積み重ねほど、重たいものも他にない。
教え始めてすぐ気がついたのだが、杏奈はかなりの完璧主義者だった。気になるところはとことん追求する。自分に妥協しない。
答えられない質問に、時折へどもどさせられたからというわけではないが、それは誇れることでもあると同時に、細かいことにこだわりすぎてしまうということではないか、と塔子は思う。
それは「小さな嫌なこと」が多いということだ。
「どうしたの?」と塔子はおだやかな声で尋ねた。
杏奈には、優しくするのがしつこく聞き出すより効果的だと経験から知っている。顔にかかった髪を肩にはらって、身長にはほとんど差のない教え子をじっと見つめた。
「……ともだちがね」と、しばらく躊躇してから、杏奈は居心地悪そうに口を開いた。
学校が始まってからまだ日が浅い。それなのに、もうちゃんと友人と呼べるクラスメートがいるということが分かって、塔子は嬉しくなった。老婆心かもしれないとも思ったけれど。
「結構、わたしの言葉づかいをなおしてくれるんだけど、わたしはオノマトペでよくまちがえてて。『ぼんぼん』ドアをたたく、っていうのはおかしいよ、とか。『びちゃびちゃ』泳ぐって言わない、とか」
訂正されるのはありがたいけれど、同時に恥ずかしくも思ってしまうのだろう。
少しプライドが傷ついて、けれどそんなことでへこんでしまうことと、それから相手の善意を素直にうけとれないことで、自分に腹を立てていることが正直に顔に出ていた。
普段は隠れている幼さに、塔子はそのふくれ気味の頬を軽くひっぱりたくなってしまった。子供扱いにつむじを曲げられることは明白だったので、実行はしなかったが。
「そこらへんは日常生活ですぐ覚えられるから気にしない。それでも早く直したいんだったら本をたくさん読んで用法に自分を慣れさせること」
「あと、鳥の鳴き声を、わたしが『トゥトゥトゥトゥトゥ』って言ったら、笑われて」
「何が正しいなんてこと決まってないわよ」
たとえば、と塔子は飲みかけの麦茶のグラスを持ちあげた。表面にびっしりとついた水滴が右手を濡らす。揺らすと、からん、と中で氷が鳴った。そのままそれを杏奈の耳の傍に突きつけた。
「氷が溶けてる音が聞こえる?」
「……はい?」
突然のことに驚いた顔と声で杏奈が答える。
「『しぱしぱ』」
「え?」
「私には、この氷が溶ける音っていうのは『しぱしぱ』としか表現できないの」
もちろん自分で作った擬音語だから辞書にも載っていないし、他の人に言うと変な顔をされることもあるけど、でも結局何がどう聞こえるかなんて感性の問題なんだから、個人それぞれでそんなに気にする必要ないのよ、と一気に塔子は言った。
「てゆうか擬音語なんて時代と共にどんどん変わってるのよ、何せ昔は犬はびよびよ吠えてたらしいし。新しいのを作ったもん勝ちよ」
やっと日焼けした細長い体を机からはがすように起こして、杏奈は塔子の手に握られたグラスを見た。
「ねえトーコさんわたし今さら気がついたんだけど」
「何でしょう」
「キレイなネイルだね」
ありがと、と微笑んで、塔子はグラスをコースターに戻した。両手の爪には水色のマニキュアが塗ってあって、その上に白い小花が描いてある。
杏奈は自分のグラスを引き寄せて、麦茶を一口飲んだ。そのまま耳をグラスの口に近づける。
「『しぱしぱ』、ねえ」
「そう聞こえてきたでしょ」
「それってものすごくいいかげんじゃない?」
「いいのよそんなもんで」
「……そうだね」
くすんと笑ってから、杏奈は再び言った。
「そうだよね」
それから授業を再開するまで、しばらく二人でグラスの中のかすかな響きに耳をすませた。
夏がはじけて消えていく音を聞いていた。