終局を告げるもの
「ソウジ! どうして、ロエルゴさんは関係ないのに! リムシーさん! ケルビン! 返事をして!」
エクセルの叫びが、狭いリビングの中で木霊する。身動きできない我が身を捻り、必死にブーン一家へ手を伸ばす。テーブルの向こう、わずかな距離が、果てしなく遠い。
「なんで、リムシーさんを……!?」
「なにか、エクセルさんの中で誤解があるようなので言っておきますがリムシーさんを殺したのは僕ではありませんよ。ロエルゴさんを椅子に縛り付けて拷問をしたのは確かに僕ですけれど」
ひたりと、勇者の右手がエクセルの肩に添えられた。声が耳元へ響く。ロエルゴは依然、座らされたまま頭を垂れて動かない。
「ソウジ……お願いだから、もうやめて……もう、なにも見たくない……」
「エクセルさん、申し訳ないのですが、僕は一人の人間から叶える願いは一つだけだと決めているのです。もうその願いを聞くことはできません」
「私が、願ったのは……この事件の真相を知ることで……ロエルゴさん達をこんな風にすることじゃない! なぜ……なぜソウジはそんなに約束にこだわるの!?」
「これが僕だからですよ。誰かの願いを叶えるか、逆に叶えるか。それを偶然の二択に委ねる。それだけが僕の自我の証明になる。エクセルさんの願いを叶えると決めた時、エクセルさんは偶然の二択を選んでくれたじゃないですか」
脳裏に、一番最初にソウジと出会った記憶が蘇る。「あなたの運命を応えて下さい」――あの時に言ったコインの裏表が、今にいたるこの結果を決めているのだ。真実を知りたいという、エクセルの純粋な願いは、今この地獄へと繋がっている。
「そんなの……そんなのおかしい、コインの裏表なんかで……」
「何をもって決めるのか、それ自体には大した意味などないのですよ。コインの裏表、空が雲一つなく青ければ、落ちた石はどちらに落ちるのか、開けたドアの前にいるのは男か女か、ネクタイの色は赤か青か。大切なことは、『決める』ということなんです」
吹き荒れるカゲイ・ソウジの『空洞』。その意味が現れていく。この怪物には、何をするかということに意味など無い。決めるということ、それを実行するということ以外に意味も価値も求めない。人の形をした、人ではない魂が吠えている。
虚無は、言葉を続けていく。
「僕の話はここまでですよ。大切なことは、本当のことをエクセルさんの前で明らかにすることです。
今ここで縛られ、拷問を加えられているロエルゴさんはけして成り行きや偶然からこうなったわけではありません。ことに問いますが、エクセルさんは彼ら組織に襲われた経験は昨日の一度きりですよね?」
背後から気配が動く。安物のカーペットを叩く靴音。カゲイ・ソウジがゆっくりとロエルゴのいる場所へ移動していく。這い寄る影のように、逃れられない漆黒が歩む。
「あ、あんな恐ろしい目に何度もあってないわよ、あの時に襲われたのが初めてで……」
「しかし、僕は彼らに何度か襲撃を受けました。調べ始めた初期から、中央区の商人の家が燃やされた時、ウェイルーという女性を尾行した時。彼らは抜け目なく僕を排除しようと仕掛けてきたのです。その全てを退けて僕は今ここにいます。さて、なぜでしょうか」
延ばされた手が、ロエルゴの肩へ触れる。
「な、なぜって……それはソウジが強かったから……」
「ああ、そっちではなく、この場合のなぜは、『一度しか襲われなかったか』という点です。あの組織は、自分達の存在や薬関係に迫るものは執拗に排除しようとしていました。ならばエクセルさんはもっと早い段階で排除されようとしてもおかしくはなかった。だが排除しようとしたのは、事件が終盤になってから。これはつまり――」
白い指先が、ざらりとロエルゴの無精髭を撫でる。
「エクセルさんを襲うなと誰かが組織にストップをかけていたのではないか、ということです」
「誰、かが……?」
誰だ。エクセルを襲うなと組織に言える人間など、彼女が知り得る中にいたのか。
「そうです。その人物は――」
「俺だ」
初めて、ロエルゴが口を開く。顔を下げたまま、血まみれの手を微かに震わせて、エクセルの師匠は言葉を続ける。
「俺が組織を止めていた」
「証言をありがとうございますロエルゴさん。つまり――ロエルゴさんは彼らにある程度の進言が出来た協力者だったということなんですよ」
「嘘だ!」
反射的に、怒号を上げてエクセルは叫ぶ。小柄な体のどこに、そんな声を出せる力があるのかわからないほどに、叫ぶ。
「嘘じゃない。俺は肉屋達をはじめとした組織の協力者だったんだ、エクセル」
「嘘、嘘よ! そんな……拷問なんかで、痛みで引き出した言葉なんか……そんなもの!」
泣き叫びながら、必死に否定する。認めてはいけない。それだけは、認めたくない。自分が夢見たものを、手放してしまう。
「お言葉ですが、エクセルさん。ロエルゴさんは痛みではけして白状はしませんでしたよ。彼が全てを話してくれたのは、『組織はこの街からはほぼいなくなってしまった』と明らかになってからでした」
「俺は今まで……そういうことしてきた。薬や組織に近づく者を、奴らに知らせて排除させる仕事をしてきたんだ」
ロエルゴが顔を上げる。頬に無精髭と、己の血の跡。憔悴した表情に、それでも力ある眼差しが弟子を見つめていた。
エクセルはその顔をした人間を何度か見たことがある。罪人が、罰を受けることを覚悟した顔だ。
「なん、で……どうして?」
湧き上がる疑問と不条理に、言葉が出ない。
「まず今回、ロエルゴさんを怪しいと思った点は、ゼントリー・ダナ殺害の件です」
それでもソウジは、淡々と言葉を繋ぐ。
「この事件では、ゼントリー・ダナは証言者を連れてウェイルーという女軍人と会う予定だったそうです」
「で、でもゼントリー・ダナは組織に殺されて、証言者も行方不明に」
街の裏側で、一人の古刑事が死んだ。あの事件が今更何の関係があるというのか。
「エクセルさんも盗み聞きしていたでしょうから、ゼントリーの死亡した場所にかつて親交があったロエルゴさんが煙草を供えていたという話は知っていますね?」
「そ、それは聞いたけど……でもゼントリーとは二年前から会ってないって」
「ロエルゴさんは豪快に見えてとても巧妙に嘘をつきます。九の事実の中に、一の嘘を混ぜる。ゼントリーとの親交もあった、かつては相棒ともいえる仲だった、二年前に起きた吊し切りケリーの事件を解決できずに亀裂が生じた。
これらは恐らく全て事実なのでしょう。嘘は一つだけです。二年前の事件から親交を絶った、その一点。しかし決定的な一点です」
その嘘一つで、ロエルゴは今起きている事件から無関係の存在となることができる。
「なんで、それが嘘だって……」
「ゼントリーという方は煙草の好みがよく変わる方だったそうです。しかし供えられた煙草をロエルゴさんが買っていたという証言は得られました。なぜ、二年間会わなかった友人の、それもコロコロと変わる煙草の銘柄がわかったのでしょうか?」
「そ、供えられた煙草が本当にゼントリーって刑事が吸ってた銘柄かなんてわからないでしょ!」
「エクセルさんのいう通り、銘柄がわからないから自分の吸っていた銘柄を供えただけという可能性もあります。だから僕は最初にロエルゴさんから煙草を一本貰ったのですよ。もちろんその煙草は供えられていた物とは違うものでした」
「あ、だから、あの時……」
あの時、唐突にロエルゴに煙草をくれといったのはそういうことだったのか。
「む、昔に吸っていた銘柄を供えただけってことも」
「それも違うんですよ、ゼントリーに供えられていた銘柄の煙草は一年前に新発売されたものです。過去に、関係を絶つ二年前以前にゼントリーが吸っていたものを覚えていて供えたわけではありません。それでは矛盾するのですよ。
このことから、ロエルゴさんがゼントリーと二年前から会わなくなっていたというのは嘘だと僕は考えました」
嘘は二種類ある。必要のある嘘と、必要のない嘘だ。
人間は意外と必要のない嘘をつく。これらの嘘は、わりとどうでもいい無関心なものごとだと認識するものほどつかれる割合が多い。事実を事実として、興味のないものでも正確に伝えようとするのはかなりエネルギーがいる作業なのだ。
対して必要のある嘘は、ロジックとエネルギーの塊である。いかに矛盾無く、しかし効果的な嘘を最小限に行うか。
一説によれば、人の言葉の多様性は「嘘」を付くために大きく進歩したという。
論理的な思考は、嘘を見破り騙されないために進化してきた。
民族が一つのグループとして統一されるために生まれた神話は、嘘を楽しむ「物語」という文化の骨格となる。
人が人らしく、人たらしめる物は、全て嘘から育まれ、嘘を憎み、嘘を愛することから始まっている。
故に、人が嘘を生み出し、
「ロエルゴさんの嘘はピンポイントで莫大な効果がある嘘だった。だから僕は、ロエルゴさんがゼントリー・ダナ殺害に大きく関わった人間であると考えたのです。つまり」
「ゼントリーを殺したのは、俺だよ。証言者として呼び出されて、騒ぎに乗じて殺した」
嘘が、人を殺す。ロエルゴの嘘が、ゼントリーを、そしてロエルゴ自身を殺す。
「こんなことになるなら、最初から煙草なんて供えなけりゃ良かったんだろうな……いや、もうそんな程度じゃないくらい、最初から俺は間違えてたな」
「違う、違う、そんなの、だって」
否定する言葉しか、エクセルは言えない。なぜ、どうして、そんな質問さえ口に出せない。目の前の真実に、ただ突き刺されるのみ。
「僕はロエルゴさんに『情報を売る』と言った後、公園で待ち合わせをする約束をしたでしょう。僕としては、ロエルゴさんが組織に僕のことを伝え公園で待つ僕を襲撃させることを予測していたんですよ。そして襲撃者を退散させて追跡しようと考えていました。その追跡用に鳩の死体を用意していたんですよ。まあこれは後で役に立ちましたけれど。
ですが、事態は少々予想外の方向へ転がってしまいました」
予想外の方向。ソウジの注意の言葉を、エクセルは思い出す。
「エクセルさんはロエルゴさんに『全てを知っている』と答えてしまった。もしエクセルさんだけだったなら、ロエルゴさんはこの言葉をけして相手にはしなかったでしょう。しかし、僕の言動が、ロエルゴさんの『もしも』という危機感を煽ってしまった」
「そういうことだ……エクセル。俺は」
「私が……あの時、ソウジの言うことを聞かなかったから……? だから」
「お前を、殺そうとした」
目の前にいた男は、もう師匠ではなかった。友を殺した罪を自白し、そして今弟子を殺させようとしたことを告げる罪人だった。
「あの時、ソウジのいうことを聞いていたら……プルーフも殺されかけなくて、私も襲われなくて、済んだの……? 私が、私が」
自分の激情に任せた言葉が、師の殺意を煽り、自分の家族を傷つける結果となった。現実を直視することができない。目の前の不条理、けれどそのスイッチを押したのが自分だという事実に震える。
「まあ、そういうことですね。余計な損害は出さずにもう少し安全に事は終わったでしょう」
愕然とする彼女を、淡々と勇者は流す。さも当たり前のことを確認するように。
「ではゼントリーの殺人に話を戻しましょう。ゼントリーがあなたを証言者として同行させた理由は……これですね?」
ソウジが懐から取り出した、小さな赤い薬包。
「それは……霧」
街を蝕む麻薬の名前を呟く。
「リムシーさんは、この薬の常習者だった……そうですね?」
一瞬の沈黙。しかしゆっくりとロエルゴは頷く。
「そうだ」
「リ、リムシーさんが……? なんで、そんな、知らなかった……」
「やはりエクセルさんは気づいてませんでしたか。夕食に招かれた晩、彼女の目の不自然な充血や眼球の微妙なブレ、躁度の高い言動から可能性は考えていたんですが、当たりでしたよ」
重度の薬物中毒者には共通したある種の特徴が表れやすい。強迫的な言動。急激な性格の変更。表情の変化。価値観や考えの理由が思い当たらない変化。
「……ゼントリーは俺の妻が常習者だったと知っていた。あいつは俺の妻の事を捜査官――ウェイルー・ガルズに話すべきだと言ったんだ。捜査官の権限を使って外部から戦力で今の警察署自体を抑えさせなければならないと」
ロエルゴ・ブーンは記者としては名が通っている。そんな人間の家族に関する必死の訴えならば、捜査官を動かせるに足るとゼントリーは考えていた。
ある程度の社会的地位。消えたとなれば騒ぎになるかもしれない人間。そして信用に足りる情報を証言できる存在。エクセルとソウジで推理した証言者の条件に、ロエルゴはピタリと当てはまる。
「だが、それはだめだ。今それをさせるわけにはいかなかった。だから俺は、襲撃を受けた騒ぎに乗じてゼントリーを背後から襲って倒れた所をナイフで刺し殺した」
「ゼントリーの死体にはナイフで刺された傷がありました。そこには肋骨に当たって折れたナイフの破片があったんです。
組織の人間と争ったならば外傷が少なすぎ、組織の人間に殺されたとするならば訓練を積んでいるはずの彼らが心臓の位置を外して肋骨でナイフの先を折るというのは少々違和感があります。証言者であるロエルゴさんに背後から襲われ、基本的には素人の人間に刺し殺されたと考えればつじつまが合いますねエクセルさん?」
「なんで、どうしてですか!? なぜロエルゴさんがそんなことをしなきゃいけないんですか! 人を殺して……私を殺そうとして……リムシーさんを殺されて……こんなことになってまでなにをしたかったんですか!?」
ソウジの問いかけを無視して、彼女の悲痛な問いが師へと突き刺さる。
師はただ、無言を返答とするのみ。
「ロエルゴさん!」
「エクセルさん、だから先ほどもいった通りリムシーさんを殺したのは僕ではないんですが」
「じゃあ、誰がリムシーさんを……?」
「というか、これは事故みたいな物なんです。僕はこの家に来てまずロエルゴさんとリムシーさんを拘束しました。しかし用があるのはロエルゴさんだけですから、リムシーさんは椅子に軽く縛っておくだけでそのままにしていたんですよ」
「じゃあ、なんで死んで……」
「僕が少し目を離していて……まあロエルゴさんへの尋問を済ませてシャワーを浴びていたんですが、どうもそのときにワイヤーの拘束を抜け出してしまったようなんですよ。負担にならないように、緩めにしていたのが仇になったようで」
ソウジがリムシーの遺体の手首を持ち上げてエクセルへ見せた。肌が金属繊維にこすれた傷跡がある。
「じゃ、じゃあリムシーさんは外へ助けを……」
「だから僕も外に逃げ出したと思ったのですが、ロエルゴさんの座る椅子の前で倒れていたんですよ。椅子の前の棚にあった霧を過剰摂取してね」
リムシーの見開いた目には、涙の跡。過剰摂取による心臓マヒが死因。
「現実に耐えきれなくて、助けを求めるよりも薬物の摂取を発作的に行ってしまったようです。これはやはり日常的に薬物を使用していた可能性が高い」
「こんな……酷い……」
エクセルには、自分を実の娘のように可愛がってくれた明るいリムシーの姿しか思い出すことが出来ない。麻薬に逃げなければいけないほど、彼女が追いつめられていたことになにも気づくことが出来なかった。
「まったくもって酷いことです。ですが、僕が一つ疑問に思うことはそれを目の前見ていたロエルゴさんが助けを求めなかったことですね。せめて大声を出せばバスルームにいる僕に聞こえたかもしれませんよ? 助けるか助けないかはわからないまでも、そうしなかったのはなぜでしょうかロエルゴさん?」
虚無の目が、捕らわれた男を射抜く。虚ろの勇者に、運命に、そして己自身に捕らわれた男は、その理由を語ることしかできない。
「――やっと、楽にしてやれると思った。ケルビンはもう先が長くない。希望が無いまま息子を看病し続けることは、リムシーには耐えられなかった。耐えられないものを、耐えるために、薬に頼るしかなかった……何度取り上げても、その度に約束をしても、結局リムシーは薬を止めることが出来なかった」
男の後悔を、絶望を、懺悔を、エクセルは声も無く受け止めることしかできない。
今、裁かれているものはロエルゴだけではない。ロエルゴの家族の姿に、理想と夢を見ながら、その真実に何一つ気づかなかったエクセル自身も、この瞬間に裁かれている。
「俺は妻に、なにも出来なかった……壊れていくリムシーを、つなぎとめていくことさえ出来ない。薬に溺れて死んでいくあいつを、助けを求めずに見続けることしか出来なかった」
ロエルゴが、リムシーをもう愛していなかったとはエクセルには思えない。愛していたはずだ。深く、強く、愛していた。絶望していても、全てを投げ出していても、友を殺しても、エクセルを見捨てようとも、彼は家族を愛していた。
その愛が、死にゆく妻を声も出さず見ていくしかない、その結果へと繋がっている。
「なるほど、つまり……あなたはあなたなりにリムシーさんを救おうとしていたわけなのですね」
薬包を投げ捨てて、虚無は口を開く。暗く、ただ漆黒に、希望も絶望も、ロエルゴの後悔もエクセルの痛みも飲み込み、虚無は語り出す。
「そうか、これが人を愛するということなんだ……」
勇者は、ケルビンの車椅子の後ろに回り押し始めた。
軋む車輪は、エクセルの元へ。
「ソウジ……お願い……ケルビンだけは……彼だけはここから逃がして……」
エクセルの懇願を、勇者は無視する。
「では、ロエルゴさんがなぜそこまでして組織に協力をしたのか。組織との繋がりを維持しようとしたのか。その理由ですが」
「ソウジ!」
「エクセルさん、大事な所ですので少々お静かに」
ソウジの指が僅かに曲がる。
「ぐっ!」
エクセルの口を、猿ぐつわのように出現したワイヤーが覆う。同時に両手も縛られていた。
「む、ぐぐ、ぐ!」
必死にもがくが、椅子ごと立ち上がることも出来ない。
「無駄ですよ。椅子も固定してありますから――さて、ケルビンさんの病気なのですが、病状は脳以外の全身に表れる腫瘍と血栓、免疫疾患。恐らく小児ガンに近い症状だと思われます。まあ僕も本職の医者ではないので素人の推測ですが、これは遺伝子疾患に近い、あるいはそのものではないかと」
遺伝子、免疫、聞き慣れない言葉を話すソウジに、エクセルは疑問を表情へ出すことしかできない。
「ああ、この世界にはまだそういうものが一般的ではないようですね。免疫は体の病気に対する抵抗力のようなものです。免疫の疾患というのは、この抵抗力がうまく働かなかったり、逆に自分の体を攻撃してしまうということです。
そして遺伝子は我々の体にある、我々の体の設計図のようなものですよ。これに不備があると、色々な病気が発生します」
用語の解説をしながら、ソウジは意識無く腰掛けるケルビンを見る。
「このケルビンさんの体には現在無数の腫瘍と免疫疾患による炎症、末端部血栓により指先等の壊死が起こっています。ただ生きているだけで耐えられない激痛が彼を常に襲っているでしょう。
ケルビンさんのこの病状が遺伝子疾患によるものなら、治す方法は僕の知る限りありません。もし他にあったとしてもここまで消耗が進んでは治療もままならないでしょうね」
それが、勇者の限界。弱者を救わねばならない運命を背負いながら、この少年を助けられない現実を淡々と推し量っていく。
「ではせめて彼を襲う激痛を止めるにはどうすればいいでしょうか? しかし、この末期ガンに近い状態では弱い鎮静剤程度では意味はないでしょう――止めるにはこの薬を使うしかありません」
懐から取り出した、赤いガラスの薬品アンプル。
「あ、ああ、ああ――!」
突如、ケルビンがのけぞり悲鳴を上げる。
「おや、タイミングよく薬が切れたようですね」
「頼む、ソウジ! その薬をケルビンに!」
悲鳴のようなロエルゴの懇願。ソウジはアンプルをエクセルの前へ見せた。
「これは、少なくともこの街の一般的な病院ではまず処方される薬ではありません。少し中を改めましたが、薬品の組成的にはモルヒネ……いえ、ヘロインに近い。とても強力な鎮痛剤です」
アンプルの蓋を折り、薬を開ける。
「あの肉屋と呼ばれていた人は、こういう薬物の生成が専門な方だったようです。
薬というものは使い方次第で害にも治療にも使えますから、こういう用途は得意だったでしょう。
ケルビンさん用に調整したこの薬を渡すことを条件に、ロエルゴさんは協力していた。一般的には出回らない、入手できないこの薬でなければケルビンさんの発作を抑えることができない。ですがそれは」
息子を少しでも苦しみから救いたかった父親の願いは、息子に更なる苦しみを与える。
「通常の発作に加えて薬物の禁断症状まで起こすようになってしまった。それがどういうことか。つまり」
薬品のアンプルが傾く。透明な液体が、ケルビンの前、その下の床にこぼれていく。
「……あ、ああ、あぁ!」
うめき声とともに、今まで苦しむだけだったケルビンが動く。視線は下に、力の無い手足を引きずるように、車椅子から落ちる。
這いずりながら、こぼれた液体を舐め始めた。
悲惨な光景を、エクセルは見つめ続ける。これが、この地獄を見続けることが、自分が今まで気づかなかった事実への償いだ。
「こういうことです。もうケルビンさんはこの薬を摂取することしか思考できないようになってしまったんですよ」
「後少しだった……医者から言われた、ケルビンが死ぬ時期まで、後少しだった。だからそれまで、苦痛無く過ごさせてやりたかった」
息子が死ぬ、そのわずかな時間を苦痛無く過ごさせるために、男はすべてを投げ出した。
見いだした正義も、愛した妻も、共に戦った親友も、育てた弟子も、全てを捨てて。
「組織は、過剰摂取でケルビンを安楽死させないように常にギリギリの分量しか薬をくれなかった。
ゼントリーの告発を協力すれば、即座にやつらは薬の供給を止める。そうすれば息子は苦しんで死ぬしかない。後少しだったんだ。あとほんの少しだけ……息子が逝く時が来てくれれば俺は……誰に、何に裁かれても、どんな償いをすることになろうと、それで良かった……良かったんだ……」
例え安楽死出来る分量の薬を渡されたとしても、ロエルゴにはそれは出来なかっただろう。自らの手で息子を楽にさせることができない、彼の弱さと優しさが、エクセルが彼を信じていた他ならぬ理由だから。
「ですが、もうケルビンさんを苦しみから止める方法は、もう一つしかありませんね」
液体を舐めて、痛みが治まったらしく床に横たわるケルビンの頭に、ソウジの靴がゆっくりと乗った。
カゲイ・ソウジの中の「弱者を救わねばならない」という約束が動き出す。
善意という意志無き、善意を成すための動機。人が持つことのない、もってはならない自らを駆動させる動機。慈悲という名の、無慈悲を施す。
「■■■■■■■■―――!!!」
ソウジが何をしようとするか、それに気づき必死にもがくエクセル。絶叫はもう声にさえならない。繋がれた両手首からは血が流れる。止めなければならない、絶対に、それだけは。
「ごめんなさい、ケルビンさん。あなたを楽にしてあげる方法はこれしかありません。ですがこれで良かったのかもしれない。ロエルゴさんも、リムシーさんも、エクセルさんも、こんなことをさせてはいけなかった。
だから、それをするのは、僕だけでいい」
虚無は、快楽によって魂を砕かれた少年に囁く。これから慈悲のために重ねる罪を、自らだけが受け止めることが、最も最善であると語る。
愛と優しさによって、少年は人である意識を失った。人間性を失い生きることを、終わりにある苦痛の果ての死を、終わらせるために勇者は罪を犯す。それを今この場で出来るものは、それをしていい存在は、この己のみなのだから。
「さようなら」
脚に力が込められる。少年の小さな、薄い頭骨が軽い音を立てて破壊されていく。一瞬で潰されて、吹き出す脳漿と血。エクセルの足元へ転がっていく眼球。ビクリと大きく体が仰け反る。やがて力無く糸の切れた人形のように弛緩する。
「―――」
エクセルは動かない。もがくことさえ止めた。静かに、涙が流れていく。目の前で少年が殺されていく光景に、心が壊されていくのを感じる。
ただ、それを見続けることしかできない。無惨な地獄を、観測し続けることしかできない。壊れていく心に、刻みつけていくことしかできない。
「――おおおおおおおおおっっ!!」
ロエルゴが、叫んでいる。もがきながら、悲しみと苦しみの中で叫ぶ。のた打つ衝動が、拘束された体を突き刺していく。彼が全てをかけて守ろうとしたものが砕けていく、その光景に耐えることができず、叫ぶ。食いしばった口元から、血が零れた。
「あああ、――俺が……俺が……!」
激情の中で、それでも言葉が零れる。
「――俺が……やるべきだった……」
それは憎しみの言葉でもなく、殺意の言葉でもなく、後悔の言葉だった。自分が、それをすべきだったという後悔。
「俺が……俺がケルビンを楽にしてやるべきだったんだ……それが最後に、父親としてやるべきことだった」
「いいえ、これはやはりあなたではなく、僕がするべきだったんですよ。ロエルゴさん」
静かに、勇者は少年を持ち上げる。ゆっくりとその動かぬ体を車椅子に乗せた。
「僕の方があなたよりもずっと多くの罪を重ねている。今更一つ増えても、大きな違いはありません。だから、これでいいんですよ。僕には人を裁く権利はありませんから、――だから、人の罪を背負うことはできる」
息子のためにすべてを裏切ったロエルゴは、息子を殺すことだけは出来なかった。ゆえに、勇者はロエルゴの息子を殺す罪を背負う。かつて人の原罪を背負った、聖者のように。
――間違ってる……こんなの……こんな、終わり方……
虚ろな目で、それでもエクセルはそれを受け入れることはできない。それは、こんなものは、正しいと認めたくはない。
――こんなの、悲しいだけじゃない……人が……死んでいくだけ……
「エクセルさん、今まで見せたこれらがこの街で起こった事件の真相ということです。どれほどにエクセルさんにとって受け入れ難くても、これが真実というものなんですよ。どうか納得を」
エクセルは答えない。呆然と、ケルビンの血の痕を見つめていた。
「これで、やっとエクセルさんの願いを果たせました。本当に良かった。本当に」
「ソウジ……お前は、誰かの願いを叶えることがしたいのか?」
不意に放たれたロエルゴの問い。
「ええ、正確には叶えるか逆に叶えるか、ですが」
「ならば、俺の願いを叶えてくれないか」
エクセルが、顔を上げた。理解してしまった。ロエルゴが何をソウジに願うのかを。なにを願うつもりなのかを。
「なにを願うのですかロエルゴさん?」
必死に、ロエルゴへエクセルは首を振る。言ってはならない、それだけは、この青年の前では。
「――俺を、殺してくれ」
男の願いに、勇者は答える。
「――それが、あなたの願いですか?」
「ああ、そうだ」
絶望だけが、ロエルゴにあった。絶望だけが、今のロエルゴを動かしている。絶望を叶える存在が、今そこにある。
――やめて、やめてやめてやめて!
懇願の表情で、エクセルはもがくだけだ。やらせない、もうそれだけは見たくない。
自分を殺そうとしたロエルゴを、全てを裏切ったロエルゴを、なぜ助けようとしたいのか。うまく理由を思い浮かべることはできない。ただ、こう思う。
――ロエルゴさんは……何も変わっていなかった……
殺意と罪を見せられてもなお、ロエルゴは変わっていないと思える。
かつてロエルゴが語った、息子のために世の中を正しく変えたいという言葉は、きっと真実だったはずだ。
ケルビンが生きるために、世の中を変える。それは裏を返せば、ケルビンが生きられないなら、世の中の正しさなどいくらでも踏み越えられるということ。
世界さえも息子のために変えようとする強さは、息子のために今までの全てを投げだしてしまう今と繋がっている。
ロエルゴは何も変わってはいない。あの時のまま、ケルビンのためだけに生きようとしていた。守ろうとしていたのだ。それが、もうただの家族だった残骸だとしても。
――許せるなんて、思えないけど……それでも……
彼女の信じていた、ロエルゴの語る正義はとうに死んでいた。街を守ろうとして死んだゼントリーという刑事も、今なお病院にいるプルーフも、ロエルゴのせいでそうなった者達だ。それを許せる自信は無い。
けれど、もう人が死ぬ所を見たくはない。もう沢山だ。
「そうですか、では、その願いをこのコインの裏表に賭けて下さい」
エクセルと出会ったあの時と同じように、銀の硬貨が宙を舞う。
不規則な軌道。回転する円盤。運命を賭けて、落ちる。
落下するコインをソウジの右手が掴む。掲げ、ロエルゴへ問いかける。
「さあ」
「……それが当たれば、お前は願いを叶えるっていうのかい」
「ええ、これが僕なのですよロエルゴさん。これだけが、僕がやらなければならない事なのです」
「む、ううう! むぅうう!」
猿ぐつわで上手く声が出せない。それでもエクセルは叫ぶ。止めなければならない。その答えを、言わせてはいけない。
「――なぁエクセル、ゼントリーは……あいつはメモの中に俺や家族の名前を書いていなかった。俺に薬のことを訴えさせようとはしても、名前まで公表させまいとあいつなりに俺や家族のことを守ろうとしていたんだろうな。そんなあいつを、俺は自分のために殺した」
ロエルゴが、エクセルを見つめる。その眼差しは、出会った時と同じものだ。優しさと鷹揚さを持つ父親の目。
「むうううう! んぅぅう!」
「――だから、こうしなきゃいけない。これしか償えない。済まなかった、エクセル。お前の前では、いつも必死に見栄を張っていたよ。それでもお前に何かを教えている時は楽しかったし、大切な時間だった。どちらになるかはわからないが、こんな終わり方を許して欲しい」
果てしなき虚無へ、答えを出す。
「表だ」
握り締められた手が開かれていく。
「――おめでとうございますロエルゴさん」
右手が振られる。同時にエクセルの拘束と、ロエルゴを縛っていたワイヤー、それに刺さっていた針が魔力へと還り霧散、消失する。
ゆっくりと、テーブル越しのロエルゴが前のめりに倒れていく。エクセルは自由になった体で、それを抑えようと前に乗り出す。
許そうと、エクセルは思った。もう一度、やり直したいと。自分もロエルゴも生きている。ならば何度でも立ち上がれるはずだ。
倒れていくロエルゴの上半身。その顔に、眼球や鼻筋を横断して真っ直ぐな縦横の線がいくつも浮かんでいく。線から鮮血が溢れた。
そこからはスローモーションで見えた。ロエルゴの頭部が、約三センチ程の立方体に分割=ソウジの作り出したワイヤーの驚異的な張力の証明。ボロボロと崩壊しながらテーブルに叩きつけられ、一気に崩壊する。
血しぶきと脳漿が、エクセルの方向へ盛大に飛ぶ。彼女の胸元と伸ばされた両腕に、かつてロエルゴが生きていたという痕跡がぶちまけられる。
「ああ、おめでとうございます。あなたの願いは叶えられた。今日は本当に良かった。二人の人の願いを叶えられるなんて」
「ああ、あ、ウソ、いやああ! ああ! あああ! あああああ!」
半狂乱になりながら、エクセルはテーブルの上の肉片をかき集めていく。両袖を脳漿に染め、頬に血がかかろうと動きを止めない。手の中には、握りしめた眼球。流れていく、失われていく何かを、必死につなぎ止めようとする。
「おや、エクセルさん。そんなことをしても人は生き返りませんよ?」
「あ、は、う、ぜぇ、ぜぇ」
やがて、エクセルの動きが止まる。荒いヒュウヒュウという掠れた呼吸音を上げながら、椅子から崩れ落ちた。
「ああ、これは――過呼吸ですか」
異常な興奮状態からの過剰な呼吸による二酸化炭素放出不全。意識して呼吸を制限するようにすれば直に治るものだ。
「ええっと、紙袋は……ありませんね」
自分の息を吸わせるペーパーバック法を行おうと考え、周囲を見渡す。しかし見つからない。血まみれの光景ではあったとしても使えるかどうか。
魔術で肺に直接二酸化炭素を打ち込むか考えたが、加減を間違えれば肺を損傷しかねないとこれも止める。
「ぜぇ、ぜぇ、ひゅ……」
「じゃあ、これをやるしかないな」
ゆっくり息を吸い込み、倒れているエクセルを持ち上げ、顔と顔を重ねる。唇を合わせ、肺の中の空気をゆっくりと押し込む。
「ぐ、ぅ、う!」
押しのけようとあがくエクセルを押さえつけ、そのまま唇を合わせ続ける。やがて、彼女の呼吸が収まる様子を確認。ゆっくりと唇を離す。涎が糸を引いた。ソウジの顔にも、ロエルゴの血と脳の一部がついている。
「急ですいません、本来なら紙袋で自分の息を吸わせるのが一般的なんですが、無かったので僕の肺の中の空気で代用を……」
「あああああ!」
力いっぱいの平手打ちで、ソウジの頬を張った。泣き叫びながら、怒りと悲しみと羞恥と嫌悪とが複雑に混ざり合う頭で、幾度もソウジを叩く。
非力な彼女がいくら叩こうと、ソウジへ大したダメージにはならない。反撃をされれば死ぬかもしれない。それでもそうする。もうそれしか今の自分にはできない。
「あの、エクセルさん、気に障ったなら謝りますので……?」
頭上に、派手な破砕音が響く。何かの破片=屋根の木材が降ったと思った瞬間、ソウジとエクセルの間に何かが落ちてきた。
とっさにソウジはエクセルを押し出し、自身は後方へ飛ぶ。
煌めく光が横断する。同時にエクセルを押し出したソウジの左腕が、半ばまで切断。血を吹き上げる。
落下してきた人影は、白い鎧の騎士だった。右手に細剣、左手は金属の義手。着地と同時に発生した高周波振動の異音がリビングの壁を叩く。
即座に左腕が分割。五条の帯へ変形。壁、テーブル、天井を切り裂きながら、ソウジを包囲するように襲いかかる。
「ふっ!」
ソウジが後ろの棚を蹴る、砕ける破片と同時に長剣が飛び出す=オウタの名が刻まれた不壊の剣を掴む。
魔力を通された剣。それを振るい、襲いかかる銀光を次々と火花を上げて弾いていく。
「済まんなエクセル、人員をここに集めるまで時間がかかった。人質確保成功! 火力支援開始!」
「え、わ、きゃああ!」
ウェイルーはエクセルを掴み、天井へ銀光伸ばす。跳躍を開始。記者を持ち上げ、騎士は再び天井の穴をくぐって外へ。
同時に、リビングの周囲から破砕音。窓ガラスを割り、壁を突き抜け、無数の槍や剣の先がソウジを包囲する形で飛び出す。この家はすでに大量の騎士達に取り囲まれている。
「撃て!」
ウェイルーの号令。いっせいに魔術が紡がれ、放たれる。荒れ狂う電流、吹き上がる火炎、突き抜ける衝撃波。
ロエルゴ・ブーンの家が、倒壊していく。
▽ ▽ ▽
「なかなかの手際の良さ、感心しますよ」
頭上の瓦礫を切り裂き、勇者は立ち上がる。
周囲には家だった残骸。もうもうと煙と粉塵が立ち込める。
白煙の向こう側で、魔術紋様の光がいくつも見えた。
やがて、はっきりと見える、勇者を取り囲む屈強な騎士達。暗闇の夜空には、いくつも浮かぶ葉巻=飛空挺がサーチライトで勇者を照らし出す。周到な包囲形態が完成していた。
「僕もこの後は色々と行かなければいけない場所があるんですが……」
騎士達の魔術紋様が次々と集束。その破壊の力を束ねていく。
「楽には通してくれないようで」
ソウジもまた魔術を発動する。巨大な魔力が、複雑かつ緻密な魔術紋様により形と干渉力を持って組み上がっていく。舞い上がる瓦礫、鉄材、足りない部分は魔力によって補填されながら、一つの何かを形作る。
肉屋の使用していた疑似大百足を作り出した魔術、駆動傀儡製造術式の模倣はすでに完了している。次々と連なっていく無機質の体、無数の律動する節足、湾曲した大顎。その全長は肉屋の時よりも大きく、二百メートルを超える。
やがてソウジの頭上に、魔術の力場によって宙をたゆたう疑似岩黒大百足が表れた。
「では、始めますか」
戦闘が、殺し合いが始まる。ここにいる誰もがそう確信した次の瞬間、遥か頭上より、巨大な光が炸裂する。
荒れ狂う熱量、膨張した空気が吹き荒れる。超破壊の光が、疑似岩黒大百足を一瞬で蒸発させた。轟音を上げて渦巻く白光が、真昼のように街を照らし、ソウジと騎士達の頭上に浮かぶ全てを軽々と焼き払い蒸発させていく。燃え上がり、次々と落下していく飛空挺。
「これ、は……!」
ウェイルーが兜の奥で呻く。この状況下で、自分達もミキシングもまとめて攻撃をしてくる相手が現れるとは。
《ウェイルー捜査官、こちらアニッシュ。やられました! 参考人や資料をまとめていた警察署が攻撃を受けました。被害は参考人と資料共に絶望的です》
魔術無線からアニッシュの悲鳴のような報告が聞こえる。署長や刑事など組織とやりとりをしていた人間は全て重厚な魔術防御を施された警察署に監禁していた。
《警察署は全壊! 全ての防御魔術が破壊され、建物の一部が……ほとんど蒸発しています! ここまでの熱量魔術は確認されていない種類のものです!》
「ああ、そうだろうな。――私も今目の前で見ているよ」
空を覆う巨大な白光の円環。その中央に人影がいた。左右の足先からは小さな光の円環がそれぞれついている。それに乗る形で、空を浮かんでいた。
角張った白いシルクハット。柔らかな布地の白いコート。古式的な白いスリーピーススーツ。そして遮光眼鏡と、黒い顎髭。細長い四十路ほどの紳士が、余裕の笑みと共に光を従えて夜空に浮かんでいる。
「やあ、いい夜だと思わないか諸君?」
帽子を脱いで、優雅に紳士は一礼。
「貴様は……誰だ!?」
問いかけるウェイルーに、紳士は微笑で交わす。
「ただの通りすがりの名乗るほどもない紳士さ」
熱量により膨張する空気が、轟風となり街を吹き荒れる。
「こうして空を飛ぶタイプの、よくいる紳士だよ。名前が無いのが名前、とでも思ってくれ。ところで今日は良い夜だろう。月は美しく、ほどほどに騒がしく、退屈も無い」
「あなたは……そうか肉屋の言っていた存在」
ソウジが呟く。この魔術が使える存在を、肉屋から得た情報で一人だけ知っている。
「あれが……後始末役、焼却者……」
「とてもいい夜だから、君達、まとめて蒸発したまえよ」
アシュリー市の永い夜は、まだ始まったばかりだ。