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「はじめまして、お嬢さん。いや『視妃』、と呼んだほうがいいのかな?どう思う、『夜の王者』?」
空気が塗り替えられていく。視界が色を帯びるように何かを捕らえ始めている。ざわめきを肌に感じる。ありえないはずなのに、薄っすらと血の匂いが鼻腔をくすぐり、舌をなでる。
まるで押さえつけるように、圧し潰すように纏わりつく気配に、沸き起こるのはただただ歓喜の念。
「噂に聞くゲンエイとは、もしやと思っていましたが……やはり、『源映』でしたか」
「今代の『視妃』はえらく優秀みたいだなぁ、夜とはいえ、常にそれ程の圧力を発しながら侍ることができるとはな。これは期待が持てそうだ。
で、お嬢さん。あんたは俺が『幻影』だと知って追いかけて来たんだろう? と、いうことは、だ。それに漏れなく付いて回る一つのこわーい噂も承知の上で追いかけたってことだよなぁ?えぇ、お嬢さん」
考えていること等大体わかる。『夜の王者』がいるから『幻影』を追っても大丈夫だと踏んだのだろう。だからこそそれを、あの噂を”知った”上で『幻影』を追ったと口にし易いように言葉を向ける。その口から出る言葉が是を示した瞬間、この纏わり付く気配を、それこそ貪りつくすように堪能できる時間が訪れる。より身近で、より強く、より盛大に。
その待ち望む光景に思いを馳せ、そして待ち望んでいたその口がゆっくりと動く。
「え?あの……噂、ですか? 何のことでしょう? 少し前に知り合った人が、えぇとなんでしたっけ、ゲンエイ? でしたっけ、あなたのお名前。用があるそうで、追いかけるって聞いて。どんな人だろうと思ったら、この娘が知ってるというので。
あ、えっとですね、その知り合った人にその時言いそびれたお礼とか、言いたいことがあったんですけど、今何処に居るのかわからなくて、なら私達もそのゲンエイという人を追いかければいいんじゃないかって思って」
少し、困ったような、何処か遠慮がちに見られる笑みを顔に浮かべながら、それでも精一杯言葉を繋げているというように、言葉を止め、適切な表現を探し、これなら、と言う言葉を思いついたというように少し表情を明るくしては次の言葉を口に乗せ。そしてその言葉が切れたと同時、そういう訳ですというように満足そうな笑顔をこちらに向けた。
――食えないお嬢さんだ。
先ほどの遣り取りを聞き、その漂う空気を察してか、それでも咄嗟にこれだけのことを考えついたということもそうだが、その口から放つ言葉と共に、表情や仕草、目線や手の動きですらも、とても演技には見えないほどに様になっており、それによって語られた内容に疑問を述べるべき隙が見当たらない。
だが、間違いなく、確信的な行動だ。後ろにて成り行きを静観し、一切の動きを見せていなかった『夜の王者』。その微かに見て取れる口の端が、楽しそうだと言うように吊り上がっていた。
まるで、肩透かしをくらったようだ。空振った高揚感を溜息の一つで些か静め、興が削がれやる気が無いという態度を隠すこともせず、その下らない茶番に付き合ってやるかと言葉を探す。
「……まぁ、何でもいい。もうどうでもいいわ。それで、その自殺志願者の知り合いってのは、誰のことなんだ?」
その明らかに取ってつけたようにしか見ることの出来ない少女の笑みは、変わることなく一言だけ告げた。
途端、時間が止まったかのように、思考がその言葉の意味を探る。それは何の名だったか。其の名は何を指す言葉だったか。そういえば、俺はそれを知っていたはずだ。道すがら耳にしただけの噂ではあるが、だからといって何故今まで忘れていたのだろうか?こんな大切なことを。こんな楽しみなことを。これ程壊したいと思っていた相手を。
止まった時間が動き出す。空振った高揚がまた鼓動を始める。振り上げ、下ろす瀬のなくなった拳にまた力が篭る。顔にも喜悦を隠せないとばかりに狂ったような笑みが浮かび、それに併せて口からも笑いがこぼれはじめる。壊された歓喜が再び湧き上がる。
「クックック……なぁ、お嬢さん。聞き間違いじゃぁねぇんだよな? 俺を追ってるのは、誰だって?」
少女ももはや茶番劇はやめたように、聞こえていたからこそ変わった自分の雰囲気に、訝るような動きも見せず、いや寸分違わず先程と全く同じ表情で、それに併せる仕草まで微塵も変えず、まるで仮面を貼り付けたような笑顔のままに、そして変わることの無い一言を口にした。
「鷹」
「それで、『源映』ってのは何のことなの?」
「……お嬢ちゃん、段々と図々しくなってきやしねぇかい?」
「あら私なんてまだまだでしょう? これくらいで図々しいっていうのは世間知らず過ぎじゃないかしら?」
「まぁ、知ってるって言えるほど世間は知らねぇけどよぉ」
何だかな、とは思いつつも、其の少女、『視妃』の同行に異を唱えず、それを沈黙の肯定だと解釈してか、さも当然の様に横へと並び、其れだけに留まらず答えが帰ってくるのが当然であるとばかりに次々と質問を繰り返しては、其の都度答えてもよさそうだと思うことには答えつつ、覇気のない足取りで歩いていた。
「例えば、だ、お嬢ちゃん。あんたにはある程度視えているだろうが……この世界は、どうなっていると思う?」
「どう、っていわれても、答え辛い質問ね」
「じゃぁ、簡潔にしよう。 この世界は……いや、世界は”一つ”だと思うか?」
その問いに、何を馬鹿な、という反応が返ってくることがないのは”知っている”。しかし、だからといって其の言葉の意味することを即座に、飲み込むように納得はできないのだろう。だから言葉が出ない。静かになった少女は、その少女に付き従うその女性が正にこの世界とは別の存在であると『視て』、そうであると知っているのだから。
「昔、この世界には、魔獣も、幻獣も、それこそそこの『夜の王者』もこの世界には居なかった。らしい。
しかし、それは起きた。そして、その時、世界は『重なった』、らしい。
まぁ、本当かどうかは知らん。俺には何も”視えない”からな。だが、『視妃』の血を引くお嬢ちゃんなら、ある程度視えているんじゃねぇか?」
だから、否定できねぇんだろ? という言葉に、反応は何もない。
即ち、無言の肯定。
「でだ。『源映』とは、その相手が視る世界にありて、その相手の対極を此方へと移す力を持つ者のことだ。
相手がより正確にその世界を視、より強大な力持つ者を呼び、より完全にその存在をこの世界へ在らせられれば、俺が移す存在もまた同じく在れる。
『視妃』の血筋の守護、『月の徒』にして『夜の王者』のそこのそれが、お嬢ちゃんの『視る』力がより強大であればある程、俺が映すことができる存在、対極の『日の徒』にして『陽の王者』をより強大な力を持たせたまま此方に移すことができるというわけだ」
「―――隷属を持って」
言葉尻を引き継ぐ冷たい声に、それに含まれる嫌悪の念を受け、それを受けて尚大きく傲慢に見える笑みを、其の言葉を発した相手に、ではなく隣を歩む質問を投げ掛けて来た少女へと向ける。
それを受けても態度に変化はなく、そこに在ったのは”それが?”とでもいいたげな不満顔だった。
”素直に答えてやったのになんでそんな不満そうなんだ?”という、沸き起こる憤懣とした怒り、と同時にそんなふてぶてしい態度の少女に、もしかしたら『鷹』と出会うまでこんな日々を送るのか?という疲れを感じ、言いようの無い脱力感が全身を巡った。
「確かに、あなたのいう『別の世界』、と思われる景色は視たことがある。けど、”同じ場所”で視えた景色は、”一つじゃなかった”。その、『重なった』世界というのも、一つではない、ということなの?」
「それは俺にゃあわかんねぇよ。俺はお嬢ちゃんと違って何も視えない。俺じゃ答えようがねぇ。それを知りたかったら、『先賢』に聞くか、あの胡散臭いおっさんに駄目元で聞いてみるんだな」
「『センケン』? 胡散臭いおっさん? 冒険者の名前か何か?」
現代に残る『宵の六歌』、それに関する人々の歴史を紡ぐ、唯一の口伝を残して来た系譜。其の名は遥か昔にありて『先見』と呼ばれ、それによって残された知識を持って『先賢』と名を変え、歴史に残された様々な事柄を隠然と受け継いでいる。
そして、まるで全てを視てきたかのように識りつくし、まるで全てを聴いてきたかのように識りつくし、まるで全てを体験してきたかのように識りつくしている、捉えどころも名前も無い飄々とした男。
そして、『源映』の力を持ってその男を捉えた時に解ったことは、そうとしか考えられないと解らされてしまったのは、その男は世界を『視ていない』、いや世界に『視られて』いないとでもいうように、何も映すことのできない、理解不能な体験。
その思考を打ち切ったのは、横から向けられる物問いたげな視線。その視線にそういえば何か言っていたかと記憶を探り、今後起こりうることも、そしてこの疲れる質問攻めの矛先を其方に向けるべく期待を込めて説明しておくかと言葉を選ぶ。
「どっちも冒険者じゃねぇよ……まぁ、あのおっさんは無理だろうが、『先見』はその内会えるだろ。なんたって『幻影』に『視妃』、それに『鷹』が顔を合わせるってんだ。六歌の内三つだぜ? これが何を意味するかあいつがわかんねぇ訳ねぇだろぉよ。もしかすっとその情報をもう仕入れて、その足で既に追っかけ始めてるかもなぁ? まぁ、どっちにしろまずは『鷹』だ。そいつを見つけねぇことにはな」
それは的外れの予想ではなく、高確率で起こりえる未来。その時自分はどういう行動を取るのだろうか?と考えつつ、とりあえずは『鷹』の担い手を探してからか、と思考を纏め、今日はこれまでという思いを載せて、口を開いた。
隣の少女はその思いを察してか、それとも思考に沈んでいるのか、口から毀れる呟きは自問を繰り返すように単語だけが漏れ聞こえるだけとなり、その姿に少しばかり開放感を感じ、『幻影』は眠気からか大きな欠伸を月へと見せた。