取り替えのきく令嬢として捨てられた私は、誰にも取り替えられない家族になりました——偏屈公爵夫人の食卓が、復縁に来たあなたへ背を向ける物語
「エレナ。君との婚約は、今日限りで解消する」
銀の皿に残った焼き菓子は三つだった。
丸いのが二つ。砂糖をまぶした細長いのが一つ。婚約はなくなった。帰る家もたぶんなくなった。それなのに私の頭は、最後の一つを誰が取るのかで忙しい。こんなときに数えている場合ではない。
「家格が釣り合わないんだ」
エドガーは、隣に立つ令嬢へ微笑んだ。私に向けていたものより、歯が二本ほど多く見える笑顔だった。人は財産が増えると歯まで増えるらしい。
「彼女なら、我が家にふさわしい。君には愛想と家事しか取り柄がないからね」
誰かが扇の陰で笑った。
母は目を伏せ、父は私ではなく空いた杯を見た。今夜、実家へ戻っても、私の部屋にはもう従妹の荷物が入っている。今朝、侍女がうっかり教えてくれた。うっかりは、たいへん便利な刃物である。
「承知しました」
声は裏返らなかった。偉い、私。焼き菓子三つ分くらいは偉い。
「物分かりがよくて助かるよ。君ならどこでもやっていける。家事は得意だろう?」
「ええ。婚約者を取り替えるお手伝いは初めてですが」
エドガーの歯が二本減った。
そのとき、会場の端から杖の音がした。こつ、こつ、と、笑い声を踏み潰して、一人の老婦人がこちらへ来る。
「では、その家事の得意な娘は、わたくしがもらいましょう」
「ヴィオラ公爵夫人」
エドガーの背筋が、急に家格を思い出した。
ヴィオラ様は私の顔より先に、皿の上の焼き菓子を見た。細長い一つをつまみ、半分に割って私へ寄越す。
「住み込みの家政係を探していたところです。返事は?」
「私で、よろしいのですか」
「愛想と家事しかないのでしょう。十分です。少なくとも、見る目しかないつもりで何も見えていない男よりは使えます」
会場のどこかで、扇が一つ閉じた。
「ですが、私は」
「帰る家があるなら断りなさい」
母の肩がわずかに動いた。父はまだ杯を見ている。空なのだから、いくら見ても酒は湧きませんよ、お父様。
私は半分の焼き菓子を口に入れた。甘かった。こんな日に甘いものをおいしいと思える自分が、少しだけ頼もしかった。
「働かせてください、ヴィオラ様」
「結構。では行きますよ。残り二つは包ませなさい」
さすが公爵夫人。数えていらした。
◇
ヴィオラ様のお屋敷で最初に驚いたのは、部屋の広さでも使用人の数でもない。夕食の席に、全員いたことだった。
主人であるヴィオラ様。甥のルーカス様。料理長のバルトさん、執事のオスカーさん、女中のミーナ。その五人の皿が、長い卓に当然の顔で並んでいる。貴族の食卓とは、使用人が壁際に立って気配を消すものではなかったのか。私の常識、玄関で靴と一緒に脱がされたらしい。
「ヴィオラ様、こちらは」
「エレナの席です」
示されたのは、ヴィオラ様の隣にある一脚だった。背もたれに小さな花の彫刻がある。
オスカーさんが椅子を引きながら、眼鏡の位置を直した。
「亡くなられたお嬢様がお使いだったものです。規則では、空席も毎日磨くことになっております」
「オスカー」
「余計な説明でした」
これは座ってよいのだろうか。座った瞬間、亡霊に膝から叱られないだろうか。迷っていると、ヴィオラ様が杖で床を一度叩いた。
「ヴィオラ。ルーカス。バルト。オスカー。ミーナ。エレナ」
一人ずつ、確かめるように名が呼ばれた。
「全員いますね。食べなさい。冷めます」
命令されたので座った。亡霊よりヴィオラ様のほうが、今のところ確実に怖い。
「エレナさん! スープはどうだ!」
向かいのバルトさんが、私の一口目に合わせて身を乗り出した。大柄な肩が卓を半分ほど隠している。
「お、おいしいです。玉ねぎが甘くて」
「玉ねぎが甘い!」
「はい」
「肉は!」
「やわらかいです」
「肉がやわらかい!」
私の感想が厨房の号外のように復唱される。無言で飲み込んだら、バルトさんの目がみるみる潤んだ。
「まずかったのか……?」
「違います! とてもおいしくて、次を急いだだけです!」
「次を急ぐほどおいしい!」
「バルト、食事中の大声は規則に反します」
「オスカーさん、そんな規則、昨日はありませんでしたよね?」
ミーナが早口で割り込む。
「今できました」
「規則って焼きたてなんですね! パンより早い!」
私はスープをこぼさないよう両手で器を守った。卓の端では、ルーカス様が黙って空の皿を差し出している。
バルトさんが二杯目をよそう。しばらくして、また皿が出る。三杯目。
バルトさんのおかわりが二皿、ルーカス様が三皿。よし。皆様のお腹だけは、私よりずっと正直です。
「エレナ」
「はいっ」
「あなたのパンが残っています」
ヴィオラ様に指摘され、私は慌ててかじった。自分の皿を数え忘れるとは不覚。家政係として以前に、食いしん坊としての名誉に関わる。
その夜、私の皿は最後まで食卓にあった。
◇
役に立たなければならない。
翌朝から、私は廊下を磨き、花を替え、帳簿を確かめ、食器棚を整えた。頼まれた分の二倍を終わらせれば、半人前の私でも一人分に数えてもらえる。算術としては完璧だ。身体が一つしかない点を除けば。
「エレナさん、それは私が運びます」
「大丈夫です、ミーナ。これくらいなら」
夕食前、私は大皿を二枚、小皿を六枚重ねて抱えた。そこへ厨房からバルトさんが飛び出してくる。
「今夜の焼き加減を見てくれ! 完璧だと思うが、完璧だと言われるまでは完璧ではない!」
「いま行きます!」
「廊下を走ることは規則で——」
オスカーさんの声に振り向いた瞬間、一番上の皿が滑った。
手を伸ばした。指先が縁を弾いた。白い皿は床へ落ち、硬い音を立てて割れた。
誰も動かなかった。
私の靴の先に、花びらのような欠片が散っている。よりによって、縁に古い紋様の入った皿だった。
「申し訳ありません。すぐ片づけます」
声はきちんと出た。手も震えなかった。箒を取り、欠片を拾い、同じ大きさのものを重ねた。片づけだけは得意だ。自分を片づけるのも、もう二度目になる。
持ってきた荷物は少なかった。服が二着、櫛、針箱、それから披露の席で包んでもらった焼き菓子の包み。最後の一つは、まだ食べずに残してある。
鞄の口を閉じると、部屋が急に借り物の顔へ戻った。よし。夕食の支度が終わる前に出れば、人数の変更にも間に合う。皿は一枚減らせばよい。
廊下へ出ると、オスカーさんが待っていた。
「お出かけですか」
「はい。今までお世話になりました」
「行き先は?」
「これから考えます」
「規則では、行き先の決まっていない外出に旅行鞄は不要です」
オスカーさんは私の手から鞄を取り上げた。そのまま、なぜか食堂へ運んでいく。
「オスカーさん?」
「夕食です」
「ですが、私は皿を割りました」
「一枚ですね」
「古い、大切なものを」
「皿の退職届は受理しました。あなたの退職届は受け取っておりません」
食堂の扉が開いた。
長い卓には、いつもどおり料理が並んでいた。ヴィオラ様の隣、花の彫刻がある椅子の前にも、スープ皿とパンと銀の匙が一組。減らされていない。一人分が、私を待っている。
オスカーさんは旅行鞄を私の席の横へ置いた。
「規則では勝手な退職は認められません」
「そんな規則、ありましたっけ」
ミーナが小声で尋ねる。
「今できました」
「やっぱり焼きたて!」
バルトさんは腕を組み、鼻をすすった。
「皿より人が戻ってこないほうが困る。今夜の煮込みの感想を誰が言うんだ」
ルーカス様は何も言わなかった。自分の隣に寄せられていた私の椅子を、元の位置へ戻した。
ヴィオラ様が杖を置く。
「ヴィオラ。ルーカス。バルト。オスカー。ミーナ。エレナ」
最後の名だけが、胸の奥へ落ちた。
「全員いますね。座りなさい」
「でも、また失敗するかもしれません」
「するでしょうね」
即答。励ましに砂糖を一粒も使わない。さすがである。
「割れた皿は直せません」
「人間を皿と同じ棚に入れるのはおやめなさい。ここは、そういう家です」
私は椅子へ座った。匙を持つまでに二度失敗し、三度目でようやく握れた。
「煮込みはどうだ!」
「まだ食べていません!」
「食べてから答えてくれ!」
当たり前です、バルトさん。
一口食べた。温かくて、少し塩が強かった。たぶん私の舌だけがおかしかったので、二口目で確かめる。三口目も必要だった。職務熱心なので。
◇
それから私は、皿を割らないことより、皿を空にすることを考えるようになった。
バルトさんは豆が苦手なくせに、細かく潰して肉へ混ぜると二皿食べる。ミーナは仕事中につまみ食いをするので、夕食のパンだけ妙に遅い。オスカーさんは冷めたスープを嫌うのに、規則の話を始めると必ず自分で冷ます。ヴィオラ様は甘いものを最後まで残し、誰かが欲しそうに見ると「余ったから」と皿ごと押しつける。
ルーカス様は何でも黙って食べた。おいしいのか、空腹なのか、皿に恨みがあるのか分からない。ただし好物の香草焼きの日は、おかわりの皿が出てくる速度が騎士だった。速い。しかも無駄がない。
「席を替えてもよろしいでしょうか」
ある夕食前、私はヴィオラ様へ尋ねた。
「理由は?」
「オスカーさんをバルトさんの隣へ置きます。規則の話をしている間に、バルトさんが苦手な豆を取れます」
「聞こえているぞ、エレナさん!」
「ミーナは厨房側です。つまみ食いに戻ろうとしたら、バルトさんが捕まえられます」
「私だけ罠じゃありません!?」
「ルーカス様はこちらへ。よく食べる方が中央にいると、大皿がきれいに空きます」
ルーカス様は私が示した席を見て、一度だけうなずいた。
その夜、オスカーさんが新しい配膳規則を説明している間に、バルトさんの豆は消えた。逃げようとしたミーナは首根っこをつかまれ、ルーカス様は香草焼きを三度おかわりした。
「三度だ」
バルトさんが厨房へ向かって叫ぶ。
「ルーカス様が三度おかわりした!」
「復唱しなくても見ています!」
「エレナさんの席順で三度だ!」
翌日から、厨房の配膳表は私の決めた席順に合わせて書き直された。バルトさんは「鍋の火加減と食卓の采配は別の才能だ」と言い、献立を決めるときは必ず私を呼んだ。
全員がそろう時刻も少しずつ早くなった。私が呼びに行く前にオスカーさんは帳簿を閉じ、ミーナは廊下を駆け、バルトさんは鍋ごと出てくる。ルーカス様だけは足音なく現れ、私の用意した席へ座って皿を出した。はいはい、今日は四皿ですね。望むところです。
そんなある日、ミーナが食器を拭きながら早口で言った。
「町で聞いたんですけど、ヴィオラ様は亡くなったお嬢様の代わりをずっと探していて、だから年頃の似た娘を屋敷へ入れたんだって、もちろん私はそんなわけないって思ってますけど椅子もあれですし外から見るとそう見える人もいるらしくてでもエレナさんは全然似てないそうです顔じゃなくて雰囲気が、あっ」
ミーナは自分の口を両手で塞いだ。
私の手の中で、拭き終えた皿が一枚だけ冷たくなった。
椅子。服。髪の色。話し方。仕事の出来。似ていなければ、いつか似た誰かと取り替えられるのだろうか。
夕食の時刻になっても、私は食堂の扉の前で足を止めていた。中では誰かが私を呼ぶのを待っている。けれど、どの私を待っているのか分からなかった。
扉が内側から開いた。
ヴィオラ様が立っていた。杖も持たず、いつもの毒も急かす声もない。
「あなたは誰の身代わりでもない」
逃げるために揃えていた足が、動かなかった。
「あなたとして、この家の者です」
ヴィオラ様はそれだけ言うと、私の手から布巾を取り上げた。代わりに、温かいパンを一つ持たせる。
「遅い。あなたが座らないと、ルーカスが大皿まで食べます」
「もう半分食べていますよ!」
ミーナの声が食堂から飛んできた。
私はパンを胸元でつぶしかけ、慌てて持ち直した。食べ物に罪はない。私にも、たぶん、ない。
席へ着くと、ルーカス様が大皿から最後の一切れを取ろうとしていた。私は先に自分の皿へ確保する。
ルーカス様がこちらを見た。
「これは私の分です」
「そうか」
「譲りませんよ」
「それでいい」
彼は空になった自分の皿を、バルトさんへ差し出した。
◇
エドガーに残ったものは、立派な屋敷と、立派な名と、支払いの期限だった。
裕福な令嬢との縁談は、彼の家の投機が失敗したと知れると消えた。金を増やすはずだった話は借金を増やし、笑顔で寄ってきた者たちは、笑顔のまま離れていった。
そこで彼は思い出した。愛想がよく、家事ができ、逆らわず、自分を待っていた娘を。
しかも今のエレナには、公爵家の後ろ盾がある。
間違いを認めてやればいい。必要だと言えば、あの娘は喜ぶ。以前より価値が上がったのなら、もう一度選び直してやるのが正しい——エドガーはそう決め、高価な砂糖菓子を用意させた。
◇
「お客様です。エドガー様と名乗っておられます」
夕食前、オスカーさんが告げた。
私の手は、並べていた匙の上で止まった。旅行鞄は自室の衣装箱の下。服は増えたので、今度は一つに収まらない。焼き菓子の包みは空だ。最後の一つは、先月どうしてもお腹が空いて食べた。逃げ支度としては零点である。
「通しなさい」
ヴィオラ様が言った。
現れたエドガーは、以前より少し細くなっていた。けれど笑顔だけは婚約披露の日と同じで、歯の本数も元に戻っている。手には金色の紐を掛けた菓子箱。砂糖で婚約が接着できるなら、菓子職人は司祭より忙しい。
「エレナ。会いたかった」
「私は、特には」
正直に答えると、背後でミーナが変な咳をした。両手で口を塞いでいるので、あれはたぶん咳ということになった。
「相変わらず冗談がうまいね」
エドガーは箱を差し出した。
「間違いに気づいた。君が必要だった」
必要。
その言葉を聞くと、身体のどこかに残っていた古い私が、すぐに働き方を考え始めた。何を直せばいい。何を我慢すればいい。皿を何枚、割らずに運べばいい。
「二人で話したい」
「夕食前です」
私は答えた。
「すぐ済むよ。公爵夫人、家族の話ですので、席を外していただけますか」
ヴィオラ様は動かなかった。バルトさんも、オスカーさんも、ミーナも、ルーカス様も動かない。
「こちらでどうぞ」
オスカーさんが空いている椅子を示した。
「規則では、夕食前の長話は料理の品質を損ないます。簡潔にお願いいたします」
エドガーは座らず、笑顔を保った。
「エレナ、我が家へ戻ってほしい。君も、いつまでも使用人ではいられないだろう。私の妻になれば身分を取り戻せる」
「取り戻す」
「君のためだ。公爵家とのつながりも、私がうまく生かしてみせる。家同士が協力すれば、利益は大きい。君だって実家を安心させられる」
私の実家。彼の家。利益。身分。後ろ盾。
そこまで並べても、私の好物は一つも出てこなかった。バルトさんなら怒るところだ。献立として失格である。
「以前は、家格が釣り合わないと」
「あのときとは事情が違う」
「私が変わったからですか」
「もちろんだ。君は公爵夫人に信頼されている。今の君なら、我が家にふさわしい」
今の私なら。
また値札を付け直しただけなのだ、この人は。安いから捨てて、高くなったから拾いに来た。しかも支払いは私持ち。商売としてもずいぶん図々しい。
「お断りします」
エドガーの笑顔が薄くなった。
「よく考えるんだ。君には私が必要だ。公爵夫人は亡くした娘の代わりを君にさせているだけだろう? 本当の家族ではない」
食堂から、音が消えた。
ヴィオラ様が立った。
椅子の脚が床を擦る。
次にバルトさんが立った。大きな身体で私の左へ来る。オスカーさんは眼鏡を直して右へ、ミーナは菓子箱を睨みながらその隣へ並んだ。
最後にルーカス様が立った。
彼は私の椅子を少し後ろへ引き、逃げ道を空けた。けれど私の前には出ない。私と同じ線に立った。
私の前には誰もいなかった。皆が、私の隣に立っていたからだ。
「何のつもりです」
エドガーの声から、磨いていた艶が剥がれた。
「エレナ、来い。君のために言っているんだ」
エドガーが私の腕へ手を伸ばす。
その手と私の間へ、ヴィオラ様の杖が下りた。
「規則では、当家の者を本人の意思なく連れ出すことは認められません」
オスカーさんはエドガーへ菓子箱を押し戻した。
「ここは、そういう家です」
エドガーは誰かの顔を探した。ヴィオラ様。バルトさん。オスカーさん。ミーナ。ルーカス様。視線だけが忙しく動き、どこにも味方を見つけられないまま止まる。
「わたくしの家族に、手を出すな」
ヴィオラ様の声は低かった。
私の前に立って守るのではなく、隣で、私と同じ相手を見ている声だった。
エドガーの笑顔が消えた。
もう、旅行鞄の置き場所は思い出さなかった。
「後悔するぞ」
「夕食が冷める後悔なら、もうしています」
私が答えると、バルトさんが力強くうなずいた。
「そのとおりだ! 煮込みは熱いうちに食べろ!」
「バルト、今はそこではありません」
「料理長としてはそこだ!」
エドガーは菓子箱を抱え直した。金色の紐が片方ほどけ、床へ垂れる。
「帰りますよ」
オスカーさんが扉を開けた。
「規則では、お帰りになる方を引き留めません」
エドガーは何か言いかけ、ヴィオラ様の杖を見て口を閉じた。扉を抜け、廊下を歩き、玄関の向こうへ消える。
重い扉が閉まった。
誰も追わなかった。
「エレナさん」
ミーナが私の袖を引いた。
「あの菓子箱、惜しくありませんでした?」
「少しだけ」
「ですよね!」
「ですが、今夜は焼きりんごです」
「勝ちましたね!」
何と戦っているのかは分からないが、焼きりんごは強い。私は皆と一緒に食卓へ戻った。
ルーカス様が、引いたままだった私の椅子を押してくれる。座ると、すぐ横から彼の空皿がバルトさんへ伸びた。
「まだ始まっていませんよ、ルーカス様」
「先に頼んでおく」
用意がよろしいことで。
◇
エドガーの家が屋敷の一部を手放したという噂は、しばらくしてミーナが運んできた。
「投機の穴が思ったより大きかったそうです、婚約も戻らず後ろ盾も得られず、親戚にも断られて、あっ、私、別に喜んでませんよ?」
言い切ったミーナは、いつものように両手で口を塞いだ。指の隙間から、たいへん喜ばしそうな鼻歌が漏れている。
私は帳簿を閉じた。助けを求める手紙は来なかったし、来ても渡すものはない。私の働いた分も、私の席も、私を選んだ人たちの名も、一つとしてあの家へ持ち出させるつもりはなかった。
ヴィオラ様は、屋敷の献立と席順だけでなく、使用人の配置や日々の買い入れまで私へ任せるようになった。褒められた覚えはない。
「明日から、あなたが決めなさい」
「よろしいのですか」
「二度言わせるなら取り消します」
これは間違いなく信頼である。たぶん。ヴィオラ様の褒め言葉は、毎回、包装が命令形なのだ。
皿の数は、以前より増えた。
バルトさんは味見用の皿まで一人分に数え、オスカーさんは新しい規則を作るたび紙を持ってくる。ミーナはつまみ食いを叱られると私の背後へ隠れ、ルーカス様のおかわりは三皿が平常、四皿で好物、五皿ならバルトさんが翌朝まで上機嫌になる。
夕食前、私は食堂を見渡した。スープから湯気。焼きたてのパン。空腹な人間が六人。完璧である。
「奥様」
「います」
「ルーカス様」
彼は私の椅子の後ろに立ったまま、短くうなずいた。
「バルトさん」
「焼き加減は最高だ!」
「まだ聞いていません。オスカーさん」
「規則どおり、定刻です」
「ミーナ」
「つまみ食いは二個だけです!」
「あとで詳しく聞きます」
私は最後に、自分の席を見た。花の彫刻がある一脚。そこにはもう、誰かの代わりになるための空白はなかった。
「エレナ」
奥様が私の名を呼ぶ。
「はい。全員いますね。では、いただきましょう」
ルーカス様が、私の椅子だけを静かに引いた。
私が座ると、彼も隣へ座る。何も言わず、自分の皿へ取り分けるついでのような顔で、香草焼きを一切れ、私の皿へ置いた。
「ありがとうございます」
返事の代わりに、空いた大皿がこちらへ差し出される。
「あ、ルーカス様。それはもう四皿目です」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




