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 1945年だったか、どこかの哲学者が書いた本の中で、『寛容のパラドックス』というのが紹介されていた。

 曰く、『寛容な社会というものはすべての主張に対して寛容でなければならい。が、無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。――』と。

 真の寛容は必然的に不寛容につながるので、寛容の問題を多数派の支配に任せるよりも、悟りを開いた「哲人王」の独裁的な支配の方が望ましいというものである。

 自由は自由故に、自由を破壊する。



 とある医者が、息子にこんなことを説いたらしい。


「今日のすべての種に『寛容』な世の中を見ていると、間違っていると思えてならない。淘汰は必要なのだ」


 その言葉を聞いた息子は、医者を軽蔑したという。


 医者は誰かが世界を支配しなければならないと思っていた。

 それこそが、人類が生き残る道だと思っていた。



 だが、それもまた『間違っている』

 極限の不寛容による『特定の生物価値』以外の淘汰は、生物が持つ選択肢の幅を狭くする。それは結局『もしかしたら生き残る為に必要な可能性をもつ幅広い材料の破棄』であり、結局は滅びにつながる。


 それを『前提』として、だ。

 『寛容』も『不寛容』も、どちらをとっても最終的に滅ぶのなら。


 その上で、人間は何を許し、何を許さないべきだろうか?




 *




 

 ブラジルの都市リオデジャネイロ。その海岸線にある街、アライアル・ド・カボには南アメリカ大陸最高の美しさを誇るターコイズブルーの海がひろがっている。多種多様な海洋生物が見られる透明度の高い海中から白い砂浜に向けて、一人の女性がのぼってきた。

 ザバッと。波の音に混じって海面に水しぶきの音が飛ぶ。周りに海水浴客などの姿はなく、どうやらここは彼女のプライベートビーチのようだ。

 ダイバースーツが体のラインを際立たせた女は、さざ波を歩いて白い砂浜に足跡をつける。高い身長と合わさってスノーケルで顔が見えずとも美しい雰囲気を醸し出ている。


「フフフン♪フン♪フフフフフン♪フン♪」


 クラシックオペラのリゴレットをご機嫌に鼻で歌いながら、女はレギュレーターとマスク・スノーケルをはずす。

 中性的な白人女性、髪色は半分が白、もう半分が鉄紺色で、口元に縫い目がある。女は自身の体と髪を拭いた後、黒縁眼鏡をかけた。

 少し髪を整えると、女は長い砂浜の向こうに目をやる。

「あら?」



「ジュレほんぶちょぉおーー!!」



 ものすごい砂煙をあげながら、さっきまで海に潜っていた女よりも圧倒的に布面積の少ない服を着た女性が大声を上げながら走ってきた。

 ズザザザザーーッゴロゴロッガッシャーン!!っと、あまりの勢いにブレーキをかけてなお目標を通り過ぎ、転がりながらビーチテントに突っ込む。

 ジュレと呼ばれた女は静かに息をフッと吐くと、ゆっくりとその青髪の女性に近づく。

「メイデンちゃん、大丈夫?」

「は、はひぃ……」

 ジュレを呼びにきた女性、メイデン=ラザフォードは目を回しながら答える。


「ごめんね?丁度潜ってたから…連絡に気づかなかったわ」

 携帯端末を操作しながら謝るジュレに、メイデンはシュバッっと立ち上がる。

「い、いえっ!!せっかくの休暇中にす、すみません!!大至急お伝えしたい案件があってっ……ちょっと私じゃその…対応できないっていうか…すみませんっ」

「いいのよ?メイデンちゃんはいつも仕事を頑張ってくれてるんだもの。」

「そ、そんなっ…私いつもここぞという時、一番大事な時に失敗しちゃってて…偶には叱ってもらわないと…逆に申し訳ないっていうか…」

「あらあら、頑張った人を頭ごなしに叱るなんて私にはできないわ。それに、怒りの感情はただただ萎縮させてしまうだけで、円滑なコミュニケーションが取れなくなってしまうかもだし、ね?」

「ふぎぎ…本部長優しすぎますぅ」

 なんだかもじもじするメイデンを他所に、ジュレはウェットスーツのファスナーを下ろす。

「じゅ、ジュジュジュジュレさん!!?何もここで着替えなくても!!?」

「あら、ふふっ…ごめんなさい。でも早急な要件らしいし、時間は惜しいでしょ?ここはプライベートビーチだから、人に見られることもないしね?」

 メイデンの方が勝手におろおろしているが、ジュレは気にしない様子だ。

 彼女はてきぱきと服を着ながら、


「それで?一体なにがあったのかしら?」


 ジュレが尋ねて、ハッとメイデンは正気を取り戻すと、今度は鼻息を大きくしてジュレに近づいた。


「ダイヤモンドですよジュレさん!!ダイヤモンドが見つかったんです!!」

「?」


「2000カラット以上のダイヤモンドが!!この南米(サザンコーン)の海底から発見されたらしいんですよ!!」


 別にジュレだけに限った話ではないかもしれないが、彼女は面倒ごとは好きではない。

 あくまで『自分にとっての』という話だが。




**




 1944年、世界に黒い霧、通称『影胞子かげほうし』が現れた。

 影胞子は生物の体を侵食し、その姿を怪物『ぬえ』へと変貌させた。そんな中世界は、鵺に対抗するための組織、『ARSS』設立する。

 そこに所属するのは、霧に侵食されながらもその自我を失わず、『狂気きょうき』という名の異能を手に入れた存在『アーベント』。

 アーベントが持つ狂気は、個人の特色に大きく影響される。わかりやすい念力や発火能力から、特定の条件を満たして発動する能力、物体や生命体を生みだす能力までさまざまだ。

 ここまでは、世間で一般的に語られる『常識』。

 実はアーベントの狂気には、滅多にみられないが『ある特殊な性質』を持ったものが存在する。

 それは――。




***





『どの文献にも載っていない、世界最大級のブラックダイヤモンドが、南米の近海で発見されました。このダイヤモンドの大きさは、ギネス記録に乗っているもののおおよそ4倍を誇り、その神秘的な黒と巨大さから『ブラックマリンビースト』と名付けれました。』


 南米アメリカ本部、その本部長室に戻ったジュレとメイデンは、巨大モニターで映し出されているニュースを、ソファに座りながら見ていた。

 メイデンが興奮している件のダイヤの画像が映し出され、ジュレは納得した様子でテーブルのコーヒーを飲む。

「…‥どうやら、海底ケーブルの工事中に偶然発見された沈没船の中から見つかったものらしいです。」


「写真で分かりづらいけど……このダイヤ、影胞子でできてるわね」



「はい…このダイヤ、不朽御物(ザ・シール)みたいなんです…」

 メイデンはジュレの言葉に真剣に返した。


 不朽御物(ザ・シール)


 アーベントの狂気によって生み出された物質。その一番の特徴は、能力者本人が死亡しても作り出した物質自体は消えないこと。

 基本的に狂気によって作られた物質は能力者の影胞子に由来しており、発動者本人が死ねば消えるが、不朽御物はそれ自体が完全に独立して残り続ける。


「本当に不朽御物なのかしら?」

「わかりません…でも、仮に発動者が生きていて、ニュースで話してたことも本当なら、異常な効果範囲を持ってます。そういった狂気は、不朽御物になる可能性は極めて高いです。」

「倉庫の中に類似する不朽御物はあった?」

「それがわかんないから本部長をよんだんですよぉっ。特別管理部門の人達、私がいくら言ってもデータの閲覧許可くれないんですもんっ」



 ARSS特別管轄部門は、不朽御物を保管する葬庫(レクイエム)や、違法異能者である札付き(バッドマーク)を収監する天の獄土(ヘルヘヴン)の管理管轄を行う部署だ。

 同じ組織ではあるが、彼らは札付き捜査や鵺退治には一切従事しない。自分たちの管理するものを徹底的に守り抜く堅物だ。雑な申請ではデータの閲覧許可は下りないだろう。

「他の本部に報告は?」

「私もさっき似たようなニュースを見て気づいたので…まだ他本部へ報告書は出してません。焦って本部長よんじゃいましたけど、そもそもうっすら写ってるこれが影胞子かどうかもわかりませんし…というか、影胞子って写真の原理で写るものなんですか?」

「スポットを見てもわかると思うけど…影胞子は光を通しにくい性質を持っているのよ。この写真の歪みはそのせいね。私たちは普段から影胞子を意識してるから、パズルのピースをはめるみたいに、これが不朽御物だということに気づけたのよ。一般人にはフレアかゴーストだと思うかもしれないわね」

「それじゃあ…」

「ええ、少なくとも、このダイヤが能力で生成されてることは間違いないわ。」

 だとしたら、やはり大問題だ。


「政府は世間に不朽御物の存在を公表していない。」


 ジュレは端的に言った。

 メイデンは息を呑む。

「この場合、どうなるんでしょう…?」

「まだこのダイヤが不朽御物であるということが世間に知れ渡ったわけじゃないから…それがバレる前にどうにか回収するしかないわね」

 ものすごく簡単そうに言うジュレだが、メイデンは冷や汗を流す。

 不朽御物の存在はすごくデリケートだ。

 なぜならば、この物質はすでに生みだした能力者の手を離れており、アーベントじゃなくても物質に付与された能力を利用できる。

 能力の強さによっては、核兵器以上の危険性を持つことだってある。そのため、不朽御物は発見と同時に葬庫に保管され、あらゆる国家、あらゆる個人がそれの所持と使用を禁止し。政府はその存在を隠している。

 

「で、でもでも…このダイヤを見つけた『GSNW』って企業、富豪のジェラルド=ゴメルって財界でも有名な反アーベント思想の実力者がCEOを務める会社ですよ?どうやって譲ってもらうんです?」

「世界に一つしかない最大級のダイヤモンドよ?値がつけられないわ。仮についたとしても、数千億程度じゃすまないでしょうし…金で買うなら国家予算並みの資金が必要になる」

「あばばばば」

 メイデンは金額の大きさに脳がパンクしてしまったらしい。

 ジュレは顔を落とし、しばらく考えこむ。

(正直この手の事件は私ではなくて、リリア先輩かイギリス本部向きだと思うのですが…彼女たちなら気づいてすぐに行動を起こしている筈。まだニュース自体見ていないのでしょうね。まぁブラジル国内の出来事ですし、ネットでもそこまで話題にはなっていないのかもしれません…)


 彼女たちもネットに流れる莫大な記事を読み漁るほど暇じゃない。こちらが情報提供しなければ、場合によってはこのニュース自体見ることがない可能性だって十分ありえる。


(少なくとも、この写真の違和感を見抜くのは、メイデンちゃんみたいな、『能力の特性上微細な影胞子の動きに敏感なアーベント』でもない限り、まず上級以下は気づかない……それ以外に気づく方法があるとすれば……)


「本部長、どうかしたんですか?」

「な・る・ほ・ど・ねぇ」

 ジュレはコーヒーをテーブルに置き、曇った眼鏡を拭きながら面白そうにつぶやいた。


「うまくいけばこのブラックダイヤモンド、手に入れられるかもしれないわ」

「えっ!?……で、でもっ………どうやって……?」

「うふふ」


 ジュレは決まってるでしょ?と言わんばかりにスキップで扉に向かう。


「泥棒をします☆」

「え」

 メイデンは放心した後、


「えええええええええええええええーーーーーーっっ!!!!!!!??????」


 かつてない仰天が本部をつつんだ。




****




 ブラジリアのアルボラーダ宮殿は、ブラジル大統領の住居用の官邸であり、大統領は公務以外はここで過ごす。

 大胆かつシンプルな白の宮殿の前に、黒塗りの高級車が止まると、中から妙齢の女性がボディーガードとともに降りてくる。

 質素な反面ある種の品を醸し出すダークグリーンのスーツを着た白髪の女性は、取れなくなった眉間の皺をそのままに、待ち人の方はないまま口を開く。


「私に話があるならまず書面を通してからにしろ」


 ボディーガードに拳銃を向けられた待ち人、ジュレ=リトルアイは関係なくパタパタと手をふる。

「うふふ♪貴女の方が私に話があると思ってね?電話やプラナルトの方だと、貴女も話しづらいでしょう?ラーラ=ジル二オール大統領。友人としての方が手っ取り早く話せるし、ね?」


「まぁ、確かにそんな不埒な恰好の者に大統領府をウロチョロされたら、私の支持率も下がりそうだな」

「なっ!なななっ!!」

 言葉にならない抗議を上げようとするメイデンを無視して、


「例のダイヤの件で☆」

「まったく……恐ろしい女だ」


 意外とあっさり、ラーラ大統領は二人を官邸に案内する。諦め、というより、感情より実利を重要視するタイプのようだ。

 巨大なプールを横目に玄関に入ると、小さな女の子たちが走り回って遊んでいる。彼女たちはこちらに気が付くと、勢いよくラーラ大統領に抱き着いた。


「「おばあちゃん!おかえりなさい!」」


「ただいま、ジュリア、ライザ」


「お孫さん、ですか?」


 先ほどまで眉間に皺をよせていたのがウソのように頬を緩める大統領は頷く。ジュレもその様子を微笑ましく見守っていた。

「かわいいわねぇ」

「本部長、子どもすきだったんですね」

「ええ♪私もよく双子の女の子とドライブに行ったり、お菓子をいっしょに食べたりして遊んだわ」

「いいですねぇ」


 にこにこする二人の向こうで大統領は二人の女の子の頭をなでると、しゃがんで視線をあわせる。

「ごめんね、おばあちゃんはこれからそっちの二人とお話があるの。遊ぶのはまた後でね」

「「えーっ!!」」

「二人をお願い」

 官邸のスタッフは深々と頭を下げ、彼女の頼みを了承する。


「応接室はあっちだ」


 スイッチを切り替えるように声色が低くなるラーラは指をさす。

 二人も、少しだけ真面目な様子で、彼女の後に続いた。




*****




「例の『ブラックマリンビースト』とやらの権利は、今は宙に浮いた状態だが……それも時間の問題だろう」

 応接室のソファに座ったラーラ大統領は、コーヒーが出る間もなく早急に話し出した。

 彼女の言葉に、メイデンは首を傾げる。

「どういうことですか?」

「あのダイヤの権利を、おそらく三つの勢力が主張しているのよ」

 ジュレは指を三本たてる。

「三つの勢力?」

「一つは当然ダイヤの発見者のゴメル・サブマリン・ネット・ワーク……通称『GSNW』もう一つはブラジル政府。そしてあと一つは……沈没船のもともとの所有国ってところね」

「なるほど……」

「発見された沈没船は、『カップ・イースターバニー』というドイツの貨物船だ。だが当時の渡航履歴が残っておらず、沈没時期はまだ特定できていない…」

(…………運命ね)

「ダイヤを発見した『GSNW』は、もともとハーネス製造系の会社だったそうだが、ゴメルの祖父の代で事業を大きく拡大して、大企業になったそうだ。」


 会話の途中にスーツの男性が静かに部屋に入ってくると、テーブルにコーヒーを置く。メイデンは、その丁寧な所作に思わずお辞儀をしてしまっていた。


「それで?その相手方の条件は?」

「え?」

「『不朽御物』の情報を世間に公表されたくなければ、ダイヤと船の権利をよこせと」

「どっ!どうして!?」

 立ち上がって声を荒げるメイデンの裾を、ジュレが引っ張る。


「あのブラックダイヤは狂気によって作られた物質よ?十中八九何かの『異能』が付与されてる……発見者がそれに気づくのは当然の帰結ね」

「えー……すでにバレちゃってるってことですか……」

「ダイヤ発見のニュースをいち早くマスコミに報道するように働きかけたのも、おそらくゴメルだろう……ダイヤの存在を世間に認知させることで、こちらに揺さぶりをかけてきたのさ」

 忌々しそうにつぶやくラーラは。目の前に出されたコーヒーを口に含む。

「…っ『不朽御物』の情報が我が国から漏れた事実を、世界各国の政府は許さないだろう……我々の国際的立場は地に落ちる。」

「同時に、それを同様に黙認していたARSSの信頼もね」


 顔を伏せるラーラとは対照的に、ジュレは落ち着いている。だされたコーヒーの味がお気に召したのか、なんなら少し上機嫌だ。


「でも、いいニュースもあったわ」

「というと?」

「ドイツブラジル両国に揺さぶりをかけているものの……まだダイヤの権利は宙に浮いたままってこと。それと、ゴメルが船の権利も同時に求めてるってこと」

「どういうことだ?」

「なるほどっ!」

 ぽんっ、とメイデンが納得した様子で手を叩く。


「ゴメル達が本当に求めているものは、まだ沈没船の中にある!だからゴメルは、船の権利を手に入れるために、2カ国の政府を敵に回してまで自分が『不朽御物』の情報を知っているということを……わざわざ明かした」

「情報っていうのは重要であればあるほど同時にリスクをはらんでいるものよ。逆を言えば、『沈没船に眠る財宝』さえ手に入れてしまえば、国家二つを敵に回しても有り余るリターンがあるということね」

 眼鏡の本部長は、答え合わせが終わったことに満足したのか、ゆっくり席をたつ。

「どうするつもりだ?」

「死者の宝を横から頂戴するだけ♪」

 ラーラの問にジュレはあっさり答える。

「あぁ……泥棒ってそういう……」

 納得した様子のメイデンの向かいで、ラーラは眉間を指でつまみながら首をふる。

「そう簡単に行くか馬鹿者。第一船がどこに沈んでいるのか正確な位置を知っているのは奴らだけだ。それに、仮に船の場所が分かったとしても、奴らが一旦あのダイヤだけを持ち帰ったことを見るに、その『沈没船に眠る財宝』とやらは、持ち帰るのがそれなりに困難な状態だということだぞ」

「うふふ☆」


 ラーラの言葉を聞いてくすくすと笑いながら、ジュレは自身の口元の縫い目を指でなぞる。

「ほ、本部長っ」

 そんなジュレの後ろから、メイデンはそそくさと後に続く。


「どちらにせよ、アナタたちは動けないんでしょ?この件は私たちが引き継ぐわ。ありがとね、大統領さん」

「………」

 少し不満そうなラーラを見ると、ジュレはご機嫌そうに応接室を後にする。

 官邸の外に出たタイミングで、メイデンがジュレに尋ねる。


「なんだか、前進した感じがしませんね……船の場所さえわかれば、違うんでしょうけど」

「場所ならわかるわよ」

「えっ!?」

 ジュレはポケットから棒付きキャンディーを取り出すと、袋を開いた。

「メイデンちゃんもどうぞ」

「わぁっ!ありがとうございますっ……はむっ……んーっあまあま」

「ふふっ……かわいい♪」

「って……もーっ!本部長!はぐらかさないでください!あと子ども扱いしないでくださいっ」

 大きく頬をふくらませるメイデンを見てジュレはさらにご機嫌になると、ごめんなさいと謝る。

 しばらく黙り、小さく息を吐くと、ジュレは迎えのヘリを見ながら、ゆっくり口を開いた。



「『カップ・イースターバニー』が沈没したのは1949年の3月、フロリアノポリスの近海に眠っているわ」







******





 そもそもの話をすると、特別管理部門はともかくとして、不朽御物を保管する『葬庫』自体は、ARSS設立当初から存在した。

 アーベントの母数が増え、それに伴い不朽御物の数も増えていき、片手間の管理が難しくなっていった結果、専門の部署が生まれたのだ。

 移動ヘリで外の景色に目を向けながら、ジュレは足を組む。

「ARSSの歴史についてどのくらい知ってる?」

「はい。たしか戦後アメリカを主導として『国連』が作られた後、アーベントとの間で互いの安全保障を前提とした『国際法案』が可決され、『ARSS』が生まれたと習いました。たしか正式なARSSの設立は、1950年。」

「GOOD」

 ジュレは舐めていた飴をかみ砕いた後、メイデンの頭をなでる。メイデンは少し気恥しそうだが、それを受け入れていた。

「戦前のアーベントの扱いっていうのははっきり言ってひどいものだったわ。人間ではなく鵺と同一視されていて、人権も無いようなものだった。」

 ジュレはポケットから携帯端末を取り出し、複数の画面を表示しながら、それぞれの画面に素早く目を通していく。

「当時のアーベントにとってARSSっていうのは、いわゆる『希望の星』。本来多数派の暴力によって死ぬしかなかった彼らは、よろこんでARSSという『救助船』に乗り込んだわ……つまりARSS設立のきっかけとなった『ベルリンのスポット攻略』が行われた1949年は、アーベントにとっても世界にとっても、転機となった年ってこと」

「それが、今回の事件と何か関係が?」

「当時は第二次大戦直後だったし、今の様な優れた情報社会でもなかったわ。『札付き問題』が大きく取り上げられるようになったのが21世紀以降なことを見ても明らかだけど、当時のアーベント達はいかに『強力な能力』を持っていようと、世界に反旗を翻すような活力はなかった……つまり、当時のアーベントは殆ど100%といっていいくらいARSSに吸収されているの」

「でも……自分勝手をしたい悪い人たちは、ARSSに入るのを嫌がるんじゃ?」

「社会と足並みをそろえたくないからって山に入って自給自足を始めるような悪人がいる?……悪人っていうのはその時その時の『社会』に合わせて楽をしたがるものよ。当時のアーベントには『ARSS』に入る以外に人間社会で生きていく術なんてなかった。それなら一旦『ARSS』という輪の中に入って、より良い自分のポストを確立するのが利口なやり方よ」

 ジュレは携帯端末で検索した画像をスライドしてメイデンに見せる。

 画像には、アーベント人口の推移のグラフが表示されている。

「つまり1950年から2000年の間にARSSが認知していない不朽御物が生まれる可能性は0ではないけどかなり低い。可能性があるとすれば闇社会から生まれたアーベントだけど……それならそういった複数の勢力もこの件に絡んできているものだし、何よりその狂気をもったアーベントが生きてるうちに『ブラックマリンビースト』は金持ちのおもちゃになってた筈……でもそんな様子もない。なら、可能性があるとすれば1944年から1949年の間に生まれたアーベントの遺産ってことになる」

 ずいぶん回りくどい言い方をするジュレに、半ばあきれるメイデンだが、この本部長がのらりくらりするのはいつものことだと無理やり納得する。

 ジュレはさらに問う。

「今回発見された『カップ・イースターバニー』の渡航記録が無いのはなぜ?」

「うーんと……ホントはあったけど、古すぎて紛失してしまったとかですか?」


「それも確かにあるかもね……でもあの船は貨物船よ?残るのは渡航履歴だけじゃない。輸入品の貿易記録や通知書だって残るわ。でも、ブラジル政府もドイツ政府もそういった記録が無いから、あの船がいつ、どこで沈んだのかわからずにいる」

「たしかに……それじゃあ」

「答えは簡単♪」



「密輸船……ってことですか?」



 ジュレより先に、メイデンが答える。

 メイデンの答えにジュレが指をならす。


「19世紀以降のブラジルにはドイツから多くの難民が渡航していたそうよ。地域によっては今でも公用語を話さない村があるくらいにはね」

 おそらく『カップ・イースター―バニー』は、ARSS設立以前にドイツからブラジルへ定期的に物資輸入や難民を密入国させるための船だったのだろう。だとすれば、船の航路は南部地域周辺に限定される。

 ジュレは携帯端末のそうさをようやく終えると、またメイデンに、画面をスライドさせる。が、今度はどうやら映像のようだ。


「私の古い知り合いに古物を集めるのが趣味の変わり者がいてね?……なんでもかんでも集めるだけ集めて中身を確認しなかったりするくらいだから、もしかしてと思って調べてもらったの。運がよかったわ」

「……っ!!」


 さすがのメイデンも、映像をみて驚愕する。

「本部長……これって……!!」

「ええ」


 南米本部長は、パズルのピースをはめるように、


「『カップ・イースターバニー』が沈没する当時の映像がはいったテープ、そこから正確な沈没位置を特定できるわ。さっきもいったけど、場所はフロリアのポリスの近海よ」

 白黒でかすれてはいるが、うっすらだが大陸の姿も写っており、そこから地形も把握、分析を行い明確な座標を割り出したようだ。

「いきましょ♪メイデンちゃん」

「……まさか」

 ピッと、ジュレは携帯端末の映像を消し、ポケットにしまう。


「この美しい南の海で、楽しい楽しい宝さがしダイビングよ」





*******




 

 沈没したポイントがわかったからと言って、その真下に船が眠っているわけではない。

 ブラジル海流は南半球としては比較的強い海流であり、ブランコ岬沖で二分して南下していく。その上、長い海岸線には様々な地形があり水深も場所によって大きく異なっている為、現在でもあの海域の詳しい数値やデータは出ていない。

 なれば、ジュレとメイデンにできることは一つだけだ。

「メイデンちゃん、朝ごはんは?」

「食べてません」

「OK、ダイビング前はなるべく食べ物は接種しない方がいい。飴くらいでちょうどいいわ」


 既に地元のボートをレンタルした二人は陸地を離れ、目的のポイントまできていた。

 船内のソファに座りながら、ジュレは周辺の地図が映っていたテレビ画面を消す。

 ボートダイビングはダイビングポイントに直接入れるので、波が高くても容易に潜ることができるし、体力の消耗も少なくて済む。

「メイデンちゃん、ダイビングの経験は?」

「一応、フェルナンド・デ・ノローニャで何回か。ウミガメと一緒に泳ぎました!」

「いい感想ね♪」

 

 本来、レジャーダイビングで潜る水深はせいぜい十数メートルだが、沈没船が沈んでいる深さとなると、数百メートルから数千メートルなんてものは当たり前だ。深海では窒素酔いや酸素中毒のリスクが高く、到底通常の人間が潜れる深さではない。

「まぁ、私達アーベントは影胞子操作で水圧から身を守りながら潜れるから関係ありませんけどね」

 メイデンが何でもなさそうに言うと、ジュレは苦笑した。

「それでも酸素ボンベは担いで潜ったほうがいいわ。いざという時に役に立つしね」

 そんなふうに、二人で談笑している時だった。




 ドドンドンドンッ!!!と、



 船内のけたたましい発砲音とともに、船内の窓ガラスが割れる。

 ガラガラと落ちるガラスとともに、肩から胸にかけて複数の穴が開いたジュレは血を噴き出しながら、床に転がった。

「ジュレ本部長!!」


 メイデンが椅子から立ち上がってジュレの名前を呼ぶのと同時に、ドアからぞろぞろと男たちが侵入してくる。

 男たちは警告も容赦もしなかった。

 

 もはや発砲音かもわからない複数の銃から発せられる乱射音と銃弾を一身に浴びて、ビクビクと体を震わせながら血の雨を降らせる。

「……ッ!!!!」

 言葉を発することもできず、メイデンは倒れた。

 先ほどまで和やかだって空気が、一瞬で凍てつく血液の匂いに支配される。

 船内が血の風呂(ブラッドバス)になった後、フェイスガードをつけていた男たちは、ようやく口を開いた。


「もったいないな……せっかくの上玉ふたりなのに……」

「よせチャーリー。相手はアーベントだ。半端に生かすと何されるかわからん」

「わかってるよ」


 つまらなそうに男はポケットから無線を出す。

「こちらM-ZZP1、野盗の排除を完了。船舶者は二名。繰り返す。野盗の排除を完了。船舶者は二名のみ。」

『よろしいM-ZPP1、直ちに撤退せよ。』

「了解」

 男は無線を切ると、周囲の男たちに命令する。


「ただちに爆弾を仕掛け、この船を沈めろ。帰還ご10分後に気爆する。」

「「了解」」


 男たちは船の機関部、船体下部など、主要な位置にプラスチック爆薬を仕掛ける。

 すべての作業が完了すると、男たちはボートの隣についた小型船に乗り込む。


「帰還する!」




「さーっ♪いえっさー☆」


 

 

「ッッッ……!!!???」



 男たちは声を上げようとするが、声が出せない様子で、喉を押さえる。

 楽しそうに返事をしたのは、先ほど蜂の巣にした血まみれ眼鏡の女だった。


 女はニタッと笑って、

「喋れないわよ?アナタたちの口の中にはメイデンちゃんの手が突っ込まれてるもの。素人さん?」

「………!!???」


 言ってる意味が解らない様子で、男たちはバタバタと泡を吹いて倒れていく。

 眼鏡の女、ジュレは、男たちの乗ってきた船を見渡す。


「リニアの原理でプロペラとフレームの接触を減らして音を出さずに走るボート……ね。つまらないわ」

「ほんぶちょぉぉおお」


 なんだか情けない声で甲板へ姿をみせるメイデンに、ジュレは笑顔で返す。


「上出来よメイデンちゃん☆ほらっ……こうして大きな魚もつれたわ♪」

「この人たち……本当に『GSNW』なんでしょうか……」


 メイデンはボートを捨て、ジュレと同じ小型船に飛び乗る。

 軋むように揺れる小型船に乗り移った彼女はジュレとは対極に、返り血が一切なくなっている。

 ジュレは小型船のアクセルを踏む。

 エンジンの音などは一切なく、ボートは静かに発進した。


「近くにはどこの国の海軍もいないことは確認済みよ。この人たちの所属は、母船に戻って確かめましょう」

 情報を集めたり、推理したり、ややこしいことをする必要もない。

 初めから、知っている人間に訊くのが一番だ。


 もともと、ジュレはそのつもりだった。

 相手が秘密を暴露するより早く先手を打ち、ゴメルが持っているダイヤが『不朽御物』と証明できれば、強制的に船の権利は『ARSS』のものだ。


 あとは、アーベントのやり方で、『敵』を片づけるだけ。

 メイデンは振り回されながらも、事件が終幕に向かっていくのを、風と共に感じていた。 

(しかしなんだったのでしょう……先ほどの違和感……影胞子に何か……)

 ジュレは含みを持って笑う。


 当然。

 このまま終わるわけがないとでもいうかのように。




********



 総トン数四千トンを超える海洋調査船が、ブラジル、カンペーシェ島から南東に数十キロ離れた海域に錨泊していた。

 調査船の中とは思えない程豪華な船室で、黒椅子に座った中年の男と、規律正しく直立する軍服の男、それと、二人を挟んだソファでくつろぐ男の3人がいた。

 偉そうな男、ジェラルド=ゴメルは大きく椅子にもたれる。

「どうかね?」

「野盗の排除に成功したようです社長。」

「バカな連中だ。こそこそ嗅ぎまわらなければその血で海を汚すこともなかったものを」

 ゴメスはシガーケースから葉巻を取り出すと、シガーカッターで頭をカットし、吸い口を作る。

 ソファに座った若い男は、すごい早さでルービックキューブの色をそろえたりばらばらにしたりして遊んでいる。机には知恵の輪やら知育玩具がザツに投げられている。

 男は飽きたのか興味が他に移ったのか、キューブを机に投げると、ニヒルに口を開いた。

 

「結構やるじゃん……いくらアーベントとはいえ、不意打ちの重火器に襲われりゃひとたまりもないか」


「このような人外がいなくとも、我々だけで任務は完遂できます。」

「よさないか伍長、彼とは必要な利害契約を結んでいるのだ」


 軍服の男は、若い男を睨みつける。

「本当に貴様ならあのダイヤを取ってこられると?」

「まぁね、鵺退治は俺たちの十八番だ」

「フンッ」


 どうやらこの若い男は二人とは違い利害関係らしい。ゴメスは葉巻に火をつけ、その味を堪能する。

「君に鉄十字賞を贈るのは仕事がすんでからだ」

「別にいらねーよそんなもん、カビの生えた椅子取りゲームは俺には関係のない話だ」

「貴様!」

「♪」

 若い男は手刀の先を軍服の男に向けると、空を切るようにそっとおろした。


「やれやれ」


「………なっ!!!」

 ギチャッ!!と、男の体が切り分けられて不安定になったケーキのように、血を飛ばしながら倒れる。


「………ご報告します!!……っひぃ!!!」

 

 勢いよくドアを開けて船室に入ってきた小柄な男が、倒れた死体にたじろぐ。

「あぁ、伍長は不慮の事故により消息を絶ってしまった。これからは君が指揮をとれ。それで?なんの騒ぎかね、うさぎ(アングストハーゼ)?」

「……はっ!はいっ!!ご報告します!!我が艦に侵入者です!おそらく先程の二人かと!!」

「何?始末したんじゃなかったのか!?」

「そ、その筈なのですが……」

「まぁいい、すぐに片づけてこい」

「了解!」

 男が敬礼をした後、すぐさま部屋を出ていくと、ゴメルはイラつきながら煙草を捨てる。

「君もいきたまえスローター。念のためだ」

「契約には無い仕事だ」

「ッチ……わかっている……元々の依頼金の倍払おう」


「ま、俺は殺しができるならなんでもいいけどね☆」

 舌打ちするゴメルを無視しながら、スローターと呼ばれた男は口笛を吹きながらカツカツと薄暗い船内通路を歩き始める。

 その表情は、引き裂くような笑みだった。

(すれ違ったヤツは全員切り裂いてやろう……全部侵入者がやったってことにすりゃあいい……)



 ゴメルの誤算はなんだったのだろか。

 政府を出し抜けることができると高をくくったことか。

 このスローターを手なずけられると思ったことか。

 それとも、




*********




『メイデンちゃんはここで甲板を見張っていて頂戴』


 メイデンは、乗り込んだ甲板のサンラウジャーで寝そべりながら、ぼーっと空を見上げていた。

 緊張感が無いように見えるが、彼女の周辺には大勢の男たちがうなり声をあげながら地面に転がっていた。



「暇だなぁ」

 本部長の命令に従ってはいるが、正直いってやることがない。

 メイデンは札付きふくめ人間狩り(マンハント)の経験がほとんどない。

 ボートや甲板で倒れている連中も、彼女が自身の『狂気』を使って失神させたのだが、もしかしたら中には死んでいる人間もいるかもしれない。

 最低限手加減はしたつもりだが、彼女自身、人殺しは避けたかったし、ジュレもそれを尊重してくれたようだ。

「犯罪者とはいえ、さすがに一般人を殺すのはなぁ」

 ぐーっと、

 気を抜いたせいか、メイデンのお腹から唸るような音が鳴る。

 そういえば、昨日から何も食べていなかった。


「お腹すいたなぁ」


 そんな独り言を呟いていると。

「?」


 甲板の向こうから、泡が弾けるような音が聞こえた。

 いや、水疱の音といえばそうなのだが、かなり低めの音だった。

「なんだろう?」


 多分音の出どころは、この船の下。

 海からだ。

 メイデンは体を起こし、手すりから下を見る。

「何、コレ」

 驚愕とともに、『ソレ』は現れた。




 **********




 ジュレは、船内の階段を降り、かなり奥の方まで既に進んでいた。

 船の大きさの割に、船員の人数はそれほど多くは無いようだった。

 先ほど自分たちを襲った男たちを含めても、せいぜい五〇人といったところだろう。

 軍服を着てはいるが、その体制のお粗末さを見るに、本当の軍人ではないだろう。

 そんなことを考えていると、前方の通路、その曲がり角がじわじわと赤く染まっていっているのが見えた。

「あら?」

 彼女は通路を曲がると、



 通路の床は、ぐちゃぐちゃに切り刻まれた死体で埋め尽くされ、足の踏み場もなかった。



 おびただしく内臓や吐しゃ物や排泄物、血が混ざり、あたりはひどい匂いで埋め尽くされている。

「…………」

 向こうの扉が少しだけ開いており、暗い通路に明かりを漏らしている。テレビの音も聞こえる。

 ジュレは無言で死体を踏みながら転ばないようにゆっくり通路を進むと、少し開いた扉を開けるため、ドアノブを握った。

 部屋に入ろうとドアを引いた。


 ジュレの右手が肩から離れ、地面に転がったのは、ドアを引いたのと同時の出来事だった。



 ボトり、と重たい音に一瞬目をやったあと、ジュレは目の前でくつろぐ男に目をやる。

 男はソファに座り、ニタニタと笑っていた。


「こんにちわ。お姉さん、俺の名はスローター」

「こんにちわ。スローターさん」


 男のあいさつに、ジュレもなんでもないように返す。

 ジュレの方からぼたぼたと血が落ちるのを見て、彼女の強がりを感じたのか、その笑みは一層つよくなった。


「ここは一本道だぜ?……ってことは、あの通路通ってきたんだ……普通なら鼻つまんで別の通路探すと思うんだけど……アンタも相当いかれてるね。良心ある?」

「アナタの目的は?」


 つきあうつもりがないのか、ジュレは質問に質問で返す。

 おとこはきょとんとした表情で、顎に手をあてる。

「金?………っていうか………虐殺」

「うん?」

 ジュレは理解できないかのように、目を見開く。

 男は上機嫌で、

「俺は人を殺すのが大好きなんだ☆この狂気、念手切断(ファルサナト)を手に入れたことにも感謝しててさ……でも今の世の中がすっげー生きづらくてさ、もっと人を殺すためにARSSが邪魔だから、『NSNW』に協力したってわけ」

「アナタ一人でこのビジネスが成立しているとは思えないけど」

「黒き眠りの(ジゼルヴィラ)……っていったらわかる?」

「あー」


 ジュレは納得した様子で、眼鏡をかけ直す。

 目の前の札付きは、どうやら雇われの用心棒ということだった。

 用心棒が味方を切り殺していれば世話がないが。


「お姉さんは、地面に転がってもがいて、少しは俺を楽しませてくれる?」

 鋭い目つき、それでいて邪悪に笑う男に、ジュレは自身の髪を触る。



「貴方に三つ、教えて差し上げましょう」

「?」


 先ほどと口調が変わったことに首を傾げるスローターだが、ジュレはつづけた。



「ひとつ、『人殺し』は別に今の世の中でも楽しんでいる人はたくさんいるので、別に『特別』な行動ではありません。アナタも人殺しを楽しんでいるようですし、それをとやかくいうつもりはありませんが、人を殺すことなんて、大したことではないのです。人なんて簡単に死ぬのですから、無理にこだわる必要なんてありませんし、血が出ようが苦しもうがどうでもいいことです。」

「何?説教?」

「いいえ?虐殺魔(スローター)を名乗っている割には、ずいぶんと手間のかかる、初心な殺し方をしているな……と。こういう殺し方をする人って、大抵が『殺しが特別な行動』だと勘違いしてる人なんですよ。間違いなら申し訳ない。でも、こんなくだらないことにこだわってないで、もう少しいろんなことに目を向けてみては?ダイビングなんてどうです?……殺しよりよっぽどたのしいですよ?」


「なんだ……お前」


 何かがおかしい。

 なにかがずれている。


 いつだって、自分は『異常な存在』として扱われてきた。

 その『特別性』を、

 その『悪性』を、

 まるで路傍の石ころでも見るかのように、


 空気が、少しずつ張りつめているのを感じた。


「ふたつ、貴方はどうやら最近アーベントになったばかりで知らずに使っているようですが……本物の独壊者(スローター)は別にいます。彼の『虐殺』とは『災害』です。こんな海の端で十数人殺していきがるような振る舞いはしませんね。訂正することをおすすめします」

 これ以上の無駄話もないかもしれない。

 本当に無駄な話だ。


「狂気解放!念手切断(ファルサナト)!!!!」


 スローターは狂気の祝詞を唱え、大きく手刀を振るう。

 その空気の刃は、途端にジュレのもう一方の腕も切り飛ばした。


「狂気解放」


 応えるように、ジュレも唱える。

 彼女の背中に現れたのは、手足をもがれた片翼の天使。

 

「片翼の(ライフスノー)


 それは雪か、はたまた白の胞子か。

 天使を中心に光のワタが溢れる。


 そのワタが二つ、彼女の傷口に触れたのと同時に。


 彼女の五体が、まるで何事もなかったかのように復活した。


「………なっ!!??」


「そしてみっつ」


 もう一つ。彼女の背中から黒い影が現れる。

 白の天使とは対照的な黒の天使。


「『黒き眠りの森』は無法であっても無秩序ではありません。貴方の振る舞いに、彼らは相応の振る舞いで返すでしょう……つまり」


 口元の縫い目が広がりそうなほど、彼女は笑う。


「貴方が楽しみたいというのなら、先輩として、つきあってあげましょう」


 ジュレは一歩踏み出す。

 虐殺魔は逆に、一歩下がる。


 先輩。

 その言葉について考えるような余裕もなかった。


 彼は知らない。

 いや、おそらくこの世界の誰一人。


 ジュレ=リトルアイという存在の根幹を。


 だが、誰もが知っている、彼女の行った『異常』。


 そして、虐殺魔の目の前で再び起ころうとしていた。




 おそらく人類史上最も有名で、最悪の『虐殺』。

 その一端が。




***********




 いつも思っていた。

 人間というのはどうしてこうもあっさり死んでしまうんだろう。

 注意を払っても本当にあっさり死んでしまう。

 勿体ない。


 いつも思っていた。

 人間の死体っていうのはどうしてこんなにも処理が大変なんだろう。

 あんなにあっさり死ぬくせに、死んだ後はしぶとく残る。

 面倒くさい。


 なんて不自由なんだろう。

 もし、何度でもしぶとく生き返ってくれたら。

 もし、いとも簡単に消えてくれれば。

 こんなに楽なことはないのに。




************




「こんばんわ☆」

「っく……!!」


 ジェラルド=ゴメルは、どうやら直感的に状況を理解し、部屋でおとなしくしていたようだ。

 血まみれになったジュレ=リトルアイは、その姿とは裏腹に優しく微笑む。


「……ッく!!」


 ゴメルはジュレにむけてダイヤを向ける。ジュレは素早くゴメルの手を足ではらい、ダイヤは地面に転がった。

 ゴロゴロと転がると、ダイヤたわずかにノイズが走ったようにぶれる。


「なるほど、ダイヤが持つ能力は『ステルス』あらゆる探知から逃れる力だったのね」



 ジュレはにやりと笑う。

「安心して?アナタを殺すつもりはないわ」

 ジュレは自身の肩を鳴らしながら、疲れた様子でソファに座るとテーブルのルービックキューブを手にとる。少し見ると、つまらなさそうにキューブを投げ捨てた。

「おそらくあなたはこの後ブラジル政府に国家反逆罪の罪で逮捕されるでしょう。喋りたいことがあるならそのときお話するといいわ」

「貴様はわかっているのか?」

「貴方の目的について?」

「……」

 ゴメルは自分から聞いておいて押し黙る。

 ジュレは呆れた様子で。

「貴方の故郷がポメローデってことと、この船の人達を見れば、大体察しがつくわ」

「………」


 ポメローデ市は、ブラジル、サンタカタリーナ州北東部にあり、ブラジルで最もドイツ的な街といわれている。

 その人口の90%近くが、ドイツからやってきた移民を祖先に持つブラジル人だ。

 おそらく、ゴメルの祖父も、その中の一人。


「あのあたりの地域が当時世間からどういったふうに扱われたかを考えれば、偏った思想にもなるかもね?」

「『当時』……だと?」

 逆鱗にふれたのか、ゴメルの眉がピクリと動く。


「あの街で今なお起きる悲劇を、貴様ら『ARSS』の人間は知らんのだ!!……霧が発生して100年……我々ドイツ人は『霧』発生の原因を作った『加害者』として糾弾されつづけた!!……アメリカや欧州連合の愚か者たちはアーベントをまるでヒーローか何かの様に持て囃し!我々には石を投げつけたのだ!!」

「それで復讐って訳?」


「復讐ではない!!これは『選別』なのだ!!!」


 ジュレは肩をすくめる。

 ゴメルは胸を張った。

「無能な奴らが世界にのさばるから、世界は歪んだ方向に進むのだ。私は『正しい価値観』を世界に示さなければならない。」

「それで白人党の真似事を?」

「彼らは私の崇高な目的に賛同し力を貸してくれたのだ。社会の為、その命を投げ打ってでも!この混沌とした世界を正さねばならないとな!」

「うふふっ☆それで本当に命と内臓が混ざって船の通路になっちゃったけれどね♪」

 ジュレは冗談みたいに笑う。


「そもそも何故だ……!!なぜこの海域がわかった!!」

「友人の協力であの船が沈んだ当時のテープ映像を手に入れたのよ。そこから逆算しただけ♪」

「ば、ばかなっ!」


「貴方こそ、貴方のような人間があの船からダイヤを見つけるなんて、出来すぎてると私は思うけど?」

「偶然ではない……私はあのダイヤの正当な継承者なのだ」

 ゴメルは机の引き出しを開けると、中から古い日記を取り出し、ジュレに見せつけた。


「祖父は、ブラジルに移ってしばらくして、地元の漁師から妙な話を聞いたことを、日記に書き記していた!ある日の夕方、船が黒い鉱石になって海に沈むのを見たというのだ!……祖父はもちろん、私も最初は信じなかったが、仕事でこの辺りの海底工事を行うことがあった時、祖父の日記の事を思い出した。漁師から聞いた話を鮮明に書き記していたおかげと、ダイヤが能力までは発動していなかったおかげで……あの船を見つけることができた。そして、このダイヤを手に入れたんだ」

「……何をするつもりですか?」

「こういうことだ」


 ドンッ!!!!と、

 ゴメルは懐から銃を取り出し、ジュレの胸を打ち抜いた。


 ジュレはすかさず、片翼の(ライフスノー)で銃弾を取り除き、傷をふさぐ。

 と同時に、既に治った傷口を押さえ、違和感に気が付いた。

(………なるほど、そういうことですか)


「この銃弾、加工した『ブラックマリンビースト』が混ぜ込まれているわね?」

「……ッチ、やはり傷口を直されては効果が薄いか」

「体の侵食が進んでいる、これは」


(おそらく、ダイヤの持つ影胞子濃度に秘密があるのでしょう)


 アーベントは、自身が操る影胞子自体は操作が極端に難しく、ほとんど操れない。

 おそらくこのブラックダイヤは、通常の能力以上に大きく影胞子を消費する『狂気』だったのだろう。そのせいか、ダイヤに含まれる影胞子の濃度は、かなり高い。

 ダイヤの加工はかなり難易度が高いが、粉にして鉄や武器に混ぜ込むことは決して不可能じゃない。

 消えない『狂気』の厄介さここに極まれりだ。

 仮にこの技術をミサイルにでも使われれば、もともと持つ『ステルス』の性質も相まって、最強の武器になりうる。


 それは誰にも気づかれず、どこでも好きな場所に落とせて、アーベントだろうが粉砕する、強力な破壊兵器だ。



「でも、すべてのダイヤは回収できなかった……」


 ジュレが付け加えるように言う。

 ゴメルは歯ぎしりして、


「あんな野蛮な札付きを仲間に引き入れたのもそれが理由でしょう。あの『不朽御物』は濃度が高いその性質故、別の問題を生んでしまった。それは――。



 ガゴンッ!!!と、船が大きく揺れる。

「なっ!!!なんだぁ!!???」


 船異常に大きく動揺するゴメスと、この揺れをあらかじめ予期していたジュレは同じく船に取り付けられた強化窓を見る。

 想定通り、『ソレ』は来た。





*************





 この世で最も大きな海洋生物といえば、まずクジラを思い浮かべるだろう。

 クジラの中でも最大の大きさを誇るシロナガスクジラは、体長30メートルをゆうに超えるという。

 だが、それはあくまでも生物に限った話だ。

 鵺という怪物は、その遥か上をいった。




 その大きさは、足だけでも20メートルはありそうだった。




 海底からまるで怪獣の尻尾の様に水しぶきをを上げて、大きく水面を叩きつける。


 ザッバァァァッ!!!!と、

 甲板が水浸しになるほど塩水の雨を降らせると、水面に黄色い眼球がかすかに見えた。

 メイデンだって、アーベントのはしくれだ。

 それなりの数の鵺を倒しているし、世界に1000人ほどしかいない中級(オルデンクラス)である。自称などでは決してなく、ジュレ本人が認める本部長の右腕だ。

 そんな彼女でも、さすがにこんな巨大なモンスターと戦う経験はなかった。


「タコだぁあああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」


 当たり前といえば当たり前のことを絶叫すると、とにかくメイデンは走り出した。

 ここは船の上、逃げ場などどこにもない。

 そんなことは彼女にもわかっているが、走り出さずにはいられなかった。


 巨大黒蛸にとっては、船を沈めるなど簡単なことだ。

 その巨大な足を巻き付ければ、こんな船など簡単に折れて沈む。

 ただそれだけだ。


 その為の行動を巨大黒蛸はとる為、2本の足が水を滝のように下に落としながらあらわれる。

 メイデンをおしつぶすように、降りてくると、



 2本の足が、まるで吹かれた泡のようにちぎれ消し飛んだ。


「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

「よっと」


 メイデンは海面に現れて雄たけびを上げる蛸の切れた足に飛び乗ると、波にでも乗るかのように中心に滑っていく。

 タコの足が、滑ったとこから割れていく。


 昔、メイデンが下級だったころ、否。今もそうか。

 よく同僚から言われていたことがある。



『アンタの戦闘、法臓のつかみ取りだよね』と。



 触れたとこから泡のように消えていく中、メイデンは鵺の体内を泳ぐように貫いて、虫食い状態にしていく。

 息継ぎの為なのか、蛸の頭を貫いて空中に飛び出した。


「あーんもうっ!!!大きすぎ!!!」



「メイデンちゃーんっ!!!!」


「ジュレさん!!」


 甲板に出てきたジュレが、大声で呼びかけ、メイデンは空中で手を上げ返事する。


「口当たりの回復速度が0.000002秒くらい早いわっ!!意識的に早めてなければ多分そのあたりに法臓があるわよ!!」

「ありがとうございますっ!!」

 

 メイデンは器用に空中でお辞儀をすると、空中に散った蛸の肉片を蹴って加速する。


「狂気解放!!!」


 アーベント共通の言葉、その発生を唱える。

 が、




「あれ!!!????私の狂気名なんだったっけ!!!!???」





 そういうと、

 巨大な大穴を法臓に開けながら、メイデンは叫んで水中に突っ込んだ。


「あーん私っていっつも最後の最後でごぼごぼっ………!!!」





 そんな様子を、甲板で見ていた二人のうち、一人が忌々しそうにつぶやいた。


「化け物どもめ……!!!」

「あらあらうふふ、化け物なんて単純でつまらいわ」


 もう一人はとても楽しそうに。

「私たちは人間。だからこそ、どこまでも狂えるんじゃない」


 どこまでも純粋に笑って返した。




**************




「結局、海底の『ブラックマリンビースト』は、あの蛸さんのごはんになっちゃってたみたいです」


 南アメリカ本部、その本部長室でニュースを見ながらケーキを食べるジュレに、メイデンは報告する。

 メイデンは携帯端末の資料を見ながら、小さくため息をつく。


「ジェラルド=ゴメルは逮捕され、『GSNW』は第三者委員会の監査の後、経営権の引継ぎを行うそうです。」

「あらそう」

「ダイヤは無事に葬庫(レクイエム)-Ⅹに移転されましたし、これでめでたしってことなんですかね……」

「そのわりには浮かない顔ね」

「そりゃそうですよ、最後の最後にあんなカッコ悪い姿さらして……」

「そんなことないわ、ほら、こっち」

 がっくり落ち込むメイデンにジュレは手招きする。ふらふらとメイデンは近寄ると、ジュレはフォークに差したいちごを差し出す。


「今回一番の手柄は、不朽御物(ザ・シール)の影胞子につられて外に出た20年級を単騎で撃破したメイデンちゃんなんだから。そんなに自分に厳しくしないで?」

「うー、ほんぶちょぉ」

「はい♪あーん」

「あー」

 ジュレに勧められるままメイデンはいちごを口に含む。

 ジュレは満足した様子で、残ったショートケーキをフォークで真っ二つにした。



「ふふっ、やっぱり人よりケーキよね。切り分けるのが楽しいのは」

「?」


 首を傾げるメイデンを背に、ジュレはケーキを口に入れる。


『速報です、先日逮捕された大富豪、ジェラルド=ゴメル容疑者が、今日未明に留置場で死亡していることが確認されました。ゴメル氏は遺書を残して首を吊っており、警察とブラジル政府は自殺とみているそうです』

「ええっ!!!???」

「………」


 驚くメイデンと逆にジュレはさして気にした様子もなく、もう一度ケーキを口に運ぶ。

(………手際がいいですね、イギリス本部の暗部さんたちも。……飛び火が私のところまで届かなければいいのですが……)

「怖い怖い」


「あの、ジュレ本部長………すみません」

「え?」

「よく考えたら、私、本部長の苺を……あぁ、なんておそろしいことを……」

(そこまででしょうか?)

 わなわな震えるメイデンに、ジュレは苦笑する。


「大丈夫よ?本命(いちご)はもう頂いたし」

「?」

「うふふ♪」


 ジュレは残ったケーキを食べつくすと、フォークを皿の上に置いた。


「そういえば、今回、私たちすごく運がよかったですよね!」

「そう?」

「はい!まさか古物商のお友達が偶然船の沈没映像が映ったテープをもってたなんて!奇跡ですよ!」

「メイデンちゃんの日頃の行いが良いからかもしれないわね」

「え~?えへへ、そうですかねぇ」


「しかもその奇跡を、世の中の安全の為に使ったんだもの。今回の事件ですっかり徳を積んだんじゃない?」

「なるほど確かに!それじゃあ!そろそろこの『徳をつめば見える服』もうっすら繊維くらいは見えてきたり?むむむ……」

 目を細めながらほとんど下着みたいな恰好で、自身の肌を凝視するメイデンをおやつに、ジュレは紅茶を飲む。


「素晴らしい部下をもって、私は幸せ者だわ☆」


 本当に、奇跡的な運命を感じながら、ジュレは一息つくのだった。



**************




「で?実際のところはどうなのですか?」


 倒産したホテルの多目的ホールで、蛹みたいな恰好の女が白衣の女に尋ねた。

 白衣の女は、手に持つでダイヤモンドで遊びながら、くつくつと笑う。

「そんな偶然あるわけないでしょう?……そもそも私、友達少ないですし」

「自慢することじゃないでしょう……」

 呆れる女を横目に、白衣の女はまるでマジックみたいにダイヤを消した。


「でも事実は小説より奇なり……もっと根本的に、私は奇跡を体験しています」

「というと?」



「だって私、あの『船』に乗ってこっちに来たんですよね」

「は?」



 今回の事件、本当に本当の奇跡は1949年当時にさかのぼる。

 『カップ・イースターバニー』は、戦後スポットや世間から非難轟轟で大混乱のドイツから逃げ出す移民を密かに運んでいた。

 特に、アーベントの当時の扱いはひどいもので、人目を隠して国から国に移動するのも当然だった。

 あの貨物船に複数人アーベントが乗っていたとて、不思議な事じゃない。

 問題は、


「あの船が沈んだのは1949年、今から90年以上前ですよ……相変わらず戯言が多いですね」

「うふふ♪」


 白衣の女はお茶目に笑う。蛹みたいな服を着た女は、大きくため息を吐いた。


「あと、我々が勧誘した『札付き』を一人殺しましたね?」

「あーあの子ですか?……ああいう手合いは利益より不利益の方が大きいですよ?少数派(マイノリティ)な欲求を狂気だと勘違いするような人は、自身の欲望に飲まれてしまうだけです。退屈ですよ」

「貴方がそれをいいますか」


 白衣の女はどこか嘲るように笑う。何がおかしいのか、とにかく静かに笑っている。


「それで?悪態をつきに私を呼び出したわけではないのでしょう?」

「当然です。例の男、どうにか都合がつきそうです……この手のことに寛容な医者なんて、アナタくらいのものかと思っていましたが、やはり世の中変わった人間がいるものですね」


 そういうと蛹の女は資料を置く、白衣の女は特に資料を持つでもなく軽く目を通す。

「ニッポン人?いいですね。私ニッポン大好きですよ」

「ですが今回の件、かなり難易度が高いですよ、貴方自身日本に赴く必要がありますし」

「問題ありません。ちゃあんと準備してありますから。一部能力の使用が困難になる制約がありますが、もともと隠している能力ですし、『ARSS』にバレる心配もないでしょう……」

「なれば手早くすませてください。貴方につきあうほど私も暇ではありませんので」


 蛹の女の並べるつれない言葉に、なぜか心地よさを感じながら、白衣の女はポケットからだしたライターで資料を燃やす。


「『9-D』は良いわ……想像を、絶する」




***************




 彼女は虐殺魔を鼻で笑ったが、殺しの快楽は理解しているつもりだ。

 だが、重要なのは殺す行為ではない。

 いつ、どこで、だれを、どうやって『殺す』のかが重要だ。


 彼女は過去に思いをはせた。

 かつて自分が呼ばれていた異名を思い出す。


 今回、本当に自分は異名通りの存在になるかもしれない、と。

 

 彼女は何をするときだって、いつだって迷い、苦悩があった。

 そんなことを知らない連中が、彼女には心が無い悪魔だなんて叫んだりして。

 どれだけの人間を殺しても、

 殺しても、

 殺してころして、

 死体を捨てるところがなくなるまで殺して。


 とんだ笑い話だ。

 

 図書館の本棚に、見知った名前を見つけた。

 いつか同じ夢をみた彼らは、既にこの世にはいない。

 懐かしんで本を開くと、たまたま自分の名前を見つける。


 かつての自分の名前。


 もはや名前なんて変えすぎて、いままでどんな名前を使ってきたかもあいまいだ。

 でも、この通称は気に入っている。

 まるで好きな音楽のタイトルのようだ。


 それはまるで道しるべのような一文。






 『Engel des Todes』







END




















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