恐竜
ゴキブリ並みにあらわる恐竜のある世界。恐竜は恐れる存在ではなかった。主人公の高2の少女は日々満足して家の家政を行っている。ところが時に巨大な恐竜も現れる。スーパーマーケットでそれに襲われる少女は恐竜が言葉をしゃべったということ、自分だけが狙われていることに混乱しこころを壊す。じつは少女はすでに壊れていたことに気づかない。
「お姉ちゃん、なんか変な音がするよ」
「どこ」
「台所のほうから」
妹と台所に行ってみると、確かにカリカリ、カサカサという音がする。
「見て!」
妹が示したところにトゲがいっぱいつけた恐竜の子供が冷蔵庫の扉をひっかいていた。
「恐竜がこんなところまで入り込んでいるなんて…」
「お姉ちゃん、どうするの? 追っ払っても食べ物のにおいですぐ戻ってくるよ」
「とりあえず使ってない食洗機に閉じ込めましょう」
「えー、気持ち悪い」
「どこか遠くに捨てに行くまで、とりあえずよ」
わたしはしり込みする妹を追いやって恐竜を食洗機へ押し込めた。そのとき恐竜のトゲで指を切ってしまった。流れる血はバンソウコウで止まらずに中指まで包帯を巻いた。
「何かあったの~」
台所ののれんから母が顔を出す。わたしは指を触りながら、
「恐竜の子供が入り込んでいたのよ」
「ふうん」
母は関心がなさそうにすぐに引っ込んだ。台所は母のテリトリーではないのだ。
家事全般はわたしがやっている。母の顔見るたび、わたしはインディオとドイツ人のハーフのようだと思う。だがれっきとした日本人だ。わたし自身ときどき友達に「どこかの国のクォーターか何か」と言われる。とすればわたしは母の遺伝をしっかり受け継いでいるのだ。
母は怠惰だ。いまもテーブルに横座りに座って、テレビを見ている。母がどこかに座を占めるとその場はなぜか雑然となる。
床に置いた読みかけのチラシの束、同じく数冊の雑誌、食べかけの開きっぱなしの袋、飲みかけのマグカップ。そしてなぜか埃っぽい。
母が移動するたびにそのごみの山が見捨てられて、次の場所に移る。わたしは掃除がしたくなる。
「掃除するよ」
と声をかけても、母は横座りのまま目を上げるだけで答えない。かわりに
「お母さん、今日黍団子食べたくなった」
と母は言う。
「黍団子ってどう作るの?」
「とうもろこしで何とかなるでしょう」
母は物憂そうだ。黍団子の作り方を知らない。わたしはちらっと時計を見る。まだ10時だ。昼食を食べてから3時のおやつにしよう。何のかんの言ってもわたしは家族のために何かするのが大好きだ。
「じゃあ、スーパーに行ってもちきびと白玉粉買ってくるよ」
わたしはぐずる妹を追い立てて二人で自転車で出かけた。
わたしはスーパーも大好きだ。いっぱい並んだ食材を前にするとワクワクしてくる。あれもこれも買いたくなる。でもうちの収入源は父だけなので家計は引き締めないとやってゆけない。うちの家族構成はおじいさん、おばあさん、お父さん、お母さんとわたしと妹と弟の7人家族だ。余裕はない。
でもかえってその限られた予算の中で何を買うのかはわたしに任せられている。やりくりの腕を振るうのは楽しい。
「あら、こんにちわ」
近所のおばさんが食品棚越しに声をかけてくる。
「いつもお使い、えらいわね。お姉ちゃん今年何年生?」
「今年で高校2年です」
「妹さんは?」
「まだ6年生です」
「弟さんは中学生なのよね」
「ええ」
わかりきったことを話続けそうなおばさんを持て余していると、そのときなんだか入り口のほうが騒がしくなった。棚が崩れて野菜の物らしいぼくっと折れる音や缶詰の床に落ちる甲高い音がする。騒ぎの正体がわからない。
「恐竜よ!」
という叫びで何が起こったかただ戸惑っていただけの客が全員パニックに陥った。この売り場は地下なのにどうして恐竜が?
と思う間もなく食品棚を突き破って恐竜が目の前に現れた。野菜、缶詰…食品があちこちで吹き上がる。とにかく逃げるしかない。
わたしは恐竜が大きな頭を振って、魚売り場に突進している間に、妹の手を引いて駆け出した。エスカレーターへの通路は反対側だ。階段を上るしかない。その通路に向かって走りに走った。
振り返ると恐竜は私たちを追ってくる。
「お姉ちゃん…もう走れない」
ちぎれるように手を離した妹は側面の狭い行き止まりの通路に駆け込んでいった。呼び止める間もなく、振り返ると恐竜は妹には目もくれず、わたしに向かって走ってくる。妹は助かった。
わたしを追ってきて! という思いで精いっぱい走った。
気づくとわたしは服が濡れている。後ろからなにか飛沫のようなものが降りかかってくる。
振り向くと恐竜はスーパーの低い天井にぶつからないように顔を下げつつ、その大きな顔を大振りしつつ、笑いながら突進してくる。恐竜が笑う? その時恐竜は、しゃべった。人間の声で。
「にげられないぞう」
液体は恐竜のおしっこだった。マーキングだ。
完全にわたしに的を絞っている。階段は目の前だった。しかしそれを上る前に捕まりそうだった。階段の手すりに手が届いた。臭い恐竜の息がすぐ背中で臭った。わたしは階段を手すり越しに飛び降りた。そのあとのことは覚えていない…。
気づくとわたしは白い部屋にいた。その前の記憶がない。壁に沿ってそれぞれ設えられたソファに何人もの人が座って何かを待っている。見回すと壁に『メンタルクリニック』という文字のあるポスターがいくつか貼ってあった。
愛想のよさそうな白衣を着た中年の医師がへやのなかのひとりびとりに小声で話しかけていた。だんだんわたしの近づいてくる。わたしは緊張した。
「きみは何で来たの?」
笑みを浮かべながら医師は尋ねた。わたしは何でここにいるのかさえ分からないのに。息が詰まって何もできない。
「き、き、き、き……」
医師は相変わらず笑みを浮かべている。
「き、何?」
のどが苦しい。
「あはは。近親相姦? じゃあうちで寝てたほうがいいよ」
医師はヤブだった。それがかえってわたしが話すことを促した。
とたんに医師は口をへの字に曲げて変な顔をした。
街は木枯らしが舞っていた。ガラスのウィンドーがモノクロの風景を固く映していた。わたしはコートの襟を立てた。そのとき何かか頬をひっかいた。何? と思ったら雪だった。ウィンドーに吹き付けられた今年最初の雪解けながら斜めの線を引いて解けていった。路面に描かれた道路標示も薄く雪で掠れている。歩道と車道の境もあいまいになってくる。わたしはただ足元を見つめて歩いた。
街を過ぎると家への道は雪をかぶったすすきが、ざわ、ざわと頭をゆすっていた。そこに現れた二股の道でわたしはどちらが家への道なのか分からなくなった。家は二股を左、という言いつけを思い出した。右の道はススキが生えていず、雪が地面に直接降り積もる、きれいな道だった。その魅力的な誰の足跡もついていない魅力的な道に背を向けてわたしは家にたどり着いた。
家に着くと部屋の中はいつにもまして雑然としていた。
わたしは掃除をしようと箒を手にする。すると妹が私の手からそれをひったくってくる。
「お姉ちゃんは何もしなくていいよ」
母まで珍しく壁のそばに立って、わたしを盗み見るようにしている。
「だって掃除をしなければ散らかってるよ」
妹も箒をとったまま、母のそばに立ってこちらを変な顔で見ている。
あの恐竜の子供はどうなっただろうか。
これも私の夢の話です。




