9.昔のようにルールーと呼んでくださいな
ロレッタは少しカビ臭い古書のにおいが好きだった。
それは日に焼けた本が床にまで積みあげられている〈ラウ書店〉のにおいだ。それを自覚したとき、彼女はとっくの昔になくしてしまった自分の帰るべき場所ができた気がしたのだ。
「まったく――あなたの店を守るのは大変ですよ、ラウ師父」
空っぽになった金魚鉢が置かれたレジカウンターに座るロレッタは、誰に言うともなしにつぶやいた。埃が舞う薄暗い店内に、その声はひっそりと消えていく。
〈ラウ書店〉という古書店はアヴァロン島の下町エリアの一角でひっそりと営業しており、飾り気のない格好をしたロレッタは一見すると地味な店員だった。
レジカウンターから見える景色は、昔から変わらない。
左右に二列ずつ配置された本棚、床に積みあげられた古書、真正面には書店の入り口があってずっと開けっぱなしになっている。だが、変わらないのは景色だけだ。店長のシリング・ラウはもういないし、ことあるごとに入り浸っていたほかの仲間たちももういない。
この前の〈ティティス・レコード〉との戦争でみんな死んだ。
誰もいなくなった店は、まるで時間がとまったように静かだった。
「あ、いらっしゃい――」
誰かが入ってきて、ロレッタは反射的に言った。
「って、オードリーか」
「……浮かない顔ですね、イェン小姐」
ぬっと姿を現したオードリーは、いつもどおりの猫背で陰気な雰囲気だった。
手には最近近所にできたコーヒーチェーン店の紙コップがある。
ロレッタが買ってくるように頼んだのだ。
「……まだデシーカさんに言ったことを後悔されているのですか。もう一週間も前ですよ」
「後悔はしていないけれど、反省はしているかな」
プラスチックのフタがついた紙コップを受け取り、ロレッタは苦笑した。
出所した日にあんな話をするべきではなかった。もっと慎重に機会をうかがうべきだった。
だが、どこかで切り出す必要があったし、悠長にまっている時間もない。
「ねえ、オードリー。わたしは冷静ではないし焦っているみたい」
「……そう言えるなら、まだ冷静ですよ」
「だといいけれど」
「……なんなら、私がベッドで慰めてさしあげます。いますぐ」
「コーヒーぶっかけるわよ」
ロレッタは半眼になって紙コップのフタを外した。
「……男より気持ちいいですよ?」
「そういう問題ではないし、勝手にわたしを受けにしないでくれる?」
「……イェン小姐は、ベッドでは可愛く震えていてほしいです。でも、いざ始まるとものすごくエロい声を出してほしいと思っています」
こいつなに言ってんだ、とロレッタは思ったが熱いコーヒーと一緒に言葉を飲み込んだ。
オードリーが気を遣ってくれていることくらいわかっている。
いまではロレッタ以外唯一の〈ラウ書店〉の生き残りだ。
「デシーカが帰ってきてくれればこれほど心強いことはないけれど。足を洗うことは、確かにウォン大人もラウ師父も認めていたことだもの。無理強いはできない。それに――わたしはイオちゃんのことも好きなの」
あの姉妹をラウが気まぐれで助けたとき、デシーカはすべてを背負って黒社会にどっぷりと浸かった。その分、イオはまだ白と黒の境界線に立っている。
ロレッタをはじめとした〈ラウ書店〉の面々とは関わりがあるが、それはこの街の人々と変わらない。このレジカウンターに座って、アルバイトをしていたことだってある。
「……そういうお人好しなところは、私は好きですが。ああ、いえ、顔も性格も全部好きです」
「ありがと。いい男ができたら真っ先に紹介するわ」
「……ひどい!」
ロレッタは小さく笑うと、少し冷めてきたコーヒーを胃に流し込んだ。
店の前に停車した黒塗りの車に気づいて、椅子から立ちあがる。
オードリーも本棚に背をつけるようにしてレジへの道を開けた。
後部座席のドアが開き、誰かが降り立つ気配がした。
「ごきげんよう、ロレッタお姉さま」
店内に足を踏み入れてきた女は、透明感のある声でそう言った。
それはよく知った声で、ロレッタは頭をさげた。
「大小姐」
「そんな態度はよしてくださるかしら、寂しくなりますの」
「そういうわけにはいきせん。あなたは〈ティンパ商会〉の総経理代行ですよ」
「その前に、お姉さまの妹弟子です。少なくともこの〈ラウ書店〉のなかでは。ですから、昔のようにルールーと呼んでくださいな」
ロレッタはその言葉で、ようやく顔をあげた。




