4.人助けはしておくものね
「ここが〈ラウ書店〉の縄張りだと知って面倒を起こしているの?」
目が合った男は、小動物のように怯えていた。無言で小さく首を振る。
「そう。なら気をつけなさい」
ロレッタは頭から手を離して億劫そうに立ちあがるなり、男の右腕を踏みつけた。躊躇うことなく、その右手にイカの姿焼きの串を突き立てる。
短い悲鳴、続けて嗚咽が響いた。
「次に騒ぎを起こしたらこんなものではすまないわよ」
ようやく追いついてきたランニングシャツの男が、ぜえぜえと息を切らして言った。
「はあっはあっ……っ……イェン小姐! ありがとうございます!」
「ホイさん、災難だったわね」
「いえ、恩にきます。助かりましたよ」
ロレッタはいやな顔ひとつせず汗だくの男の肩を軽く叩き、耳元で囁いた。
「気にしなくていいわ。お金を取り返したら、あのチンピラは許してあげてくれる?」
「もちろんです。もう十分痛めつけてくれましたから」
「じゃあ商売に励んで。気が向いたら店に食べにいくわ」
頭をさげる男に手を振って、なにごともなかったかのように歩き出す。
本当に騒がしい街だな、とロレッタは思った。
少しずれていた眼鏡を押しあげて、「んー」と伸びをして空を見あげる。
建物の間に張り巡らされたロープに吊るされた洗濯物が風に揺れていた。
彼女が身を置く〈ラウ書店〉の縄張りは、再開発で高層ビルの建築ラッシュになっているアヴァロン島の中心地に比べれば実に小規模で経済的なあがりはまるでない。
だが、彼女はこの猥雑な活気や、むせ返るような生活のにおい、ここで暮らしているエネルギッシュな人々が好きだった。
大陸を支配する神聖帝国がエルフ人たちの国が繁栄していたアヴァロン島を侵略する前、大昔の書物にはこの島は妖精が住む常春の楽園だと記されていたらしいが。
二百年前にエルフ人たちのマグ・メル王国は滅び、神聖帝国のガウロン人との同化政策によってその言語や文化の痕跡はほとんどなくなってしまった。
エルフ人たちは入植してきたガウロン人と否応なしに共存することになり、いまでもアヴァロン島には根深い対立が残っている。
長く尖った両耳をもつエルフ人に対する「耳長」という蔑称は典型的なものだったし、身体のどこかに鱗――九つの頭をもつ竜の眷属を自称するガウロン人はそれを竜鱗と呼んでいた――があるガウロン人は「鱗野郎」や「蜥蜴」と呼ばれている。
ロレッタもそんな「鱗野郎」の一人だ。右腕から手の甲にかけて竜鱗があり、白いシャツから透けて見えている。もっとも彼女は人種的な主義主張よりも、その日の食い扶持を稼ぐことのほうがよほど大切だった。ここで暮らす大半の人間は、きっとそうだ。
「こんにちは、マスター」
ロレッタは開店前のバーのドアを開くと、薄暗い店内に声をかけた。
いくつかあるテーブルには椅子が逆さまに乗せられており、バーカウンターの奥では顔馴染みのエルフ人の店主が開店前の仕込みをしていた。
「イェン小姐……!」
顔をあげた五十絡みのエルフ人は、少しばかり驚いた顔をした。
「あなたが直接くるなんて。今月分はもうお支払いしましたが、急な入り用ならすぐにでも」
「ありがとう、でも大丈夫よ。この前の戦争では、みんなにずいぶんと無理をさせてしまったから。本当は毎月の支払いも、しばらくはなくしてあげたいくらいだわ」
「お気になさらず。私らはみんな〈ラウ書店〉に世話になってきてるんです」
「それはお互いさまというやつよ。今日はお酒を買いにきたの」
「珍しいですな。イェン小姐は下戸でしょう」
「ええ。わたしは飲めないけれど、お祝いにね。デシーカが出所することになったの」
「そりゃあ、めでたい! 五年は食うって話でしたが、まだ一年も経ってない」
「いろいろあるのよ。このアヴァロンじゃ、刑期なんてあってないようなものだもの」
「違いないですな。まあなんにせよめでたい。この店で一番の酒を用意しますよ」
「まってまって。こっちにだって予算があるのよ。三万ロンガンまで」
「お代なんていりませんよ。デシーカさんはイェン小姐の盟友だし、この店がチンピラどもから嫌がらせを受けていたときに助けてもらいましたからね。あの人がビール瓶でリーダーの頭をぶん殴ったときの、連中の顔ったらなかったですよ」
まるで昨日のことのように話し、マスターが店の奥に酒を取りにいく。
その背中を見送り、ロレッタは微苦笑を浮かべた。
「まったく……人助けはしておくものね」
友人の顔を思い浮かべ、そっと独りごちる。
「そうでしょう、デシーカ」




