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3.イェン小姐

「こんにちわ、イェン小姐(シャオジェ)!」


「おつかれさまです、ロレッタさん!」


「まあまあ、ロレッタちゃん、いつも美人さんねえ」


「ロレッタお姉ちゃん、アイスクリーム買ってよー」


 人がいいおじさん、柄の悪い若者、軒下で麻雀を楽しむ老婦人、学校帰りの子どもたち――すれ違う人々から口々に声をかけられる。


 その度にロレッタ・イェンは丁寧に握手をし「困ったことがあればいつでも言ってください」と、目の奥は決して笑っていない笑顔で答え、子どもたちに少しばかり小遣いを渡した。


〈ティンパ商会〉直系組織〈ラウ書店〉の縄張りであるアヴァロン島の下町エリアでは、副店長である彼女の顔と名前を知らない者はいない。


「まったく、気のいい人たちだわ」


 ロレッタは汗で額に張りつく前髪を、鬱陶しそうにかきあげた。


 右手には代金はいらないからと強引に渡されたイカの姿焼きがあって、彼女は串に刺さったそれにかぶりついた。甘辛い味つけで、イカの旨味が口いっぱいに広がる。


 一見するとロレッタ・イェンは、そんな振る舞い似合わない「お嬢さん」のようだった。


 太い三つ編みにした艶やかな黒髪と地味なフレームレスの眼鏡。


 レンズの奥にある黒い瞳には冷たい鋼鉄の光が宿っていたが、小柄な体躯と化粧気のない顔立ちは彼女を少し幼く見せていた。シンプルな白いシャツと緩めたネクタイは、学生と勘違いされそうだったし、イカの姿焼きを食べながら歩く様子は観光客にも見えた。


 彼女が足を進める蒸し暑い街の空気は、無数の屋台から立ちのぼる湯気と、いき交う人々の熱気に満ちている。


 手書きの広告が貼られた建物に囲まれた狭い路地は、無秩序に並んだ看板の洪水で埋め尽くされ、赤や金色のガウロン文字がネオン管の光を浴びてギラギラと輝いている。


「誰か! そのくそ野郎を捕まえてくれ!」


 喧騒のなかに男のだみ声が聞こえて、ロレッタは小首を傾げた。


 小さな悲鳴となにかを引っくり返すような音。


 屋台の粗末なプラスチックの椅子を蹴り飛ばし、歩く人々にぶつかりながら体格のいい男が走ってくる。見ない顔だ。そして、その男を追いかけているのは、ランニングシャツ一枚だけのでっぷりした中年男で息も絶え絶えだった。 


「イェン小姐(シャオジェ)!」


 こちらの顔を見るなり、中年男は叫んだ。


「そいつ、うちの店員ぶん殴って、レジの金もっていきやがった!」


 中年男は顔見知りで、小汚いが味はいい定食屋をやっている。


「はあ、まったく……」


 ロレッタは小さく嘆息すると、イカの姿焼きを急いで食べ終えた。口の周りについたタレを手の甲で拭い、通行人を突き飛ばしながらこちらに向かってくる男を見据える。


 そして、すれ違いざまにその足を引っ掛けた。


 男が勢いよく転がって、地面に突っ伏す。


 ロレッタは続けて、男の脇腹を力任せに蹴りあげた。


 彼女の小柄な体格からは信じられないような強烈な一撃で、骨が折れる鈍い音が響く。


「ぐえっ……」


 潰れたカエルのような悲鳴が男の喉からもれた。


 ロレッタはその場にしゃがみ込むと、男の髪を掴んで無理やり顔をあげさせた。


「わたしの顔を見ろ、ドチンピラが」

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