22.ウソだよ
「イオ」
少し離れたところからこちらの様子をうかがう妹の表情はよく見えなかった。
「ロレッタさんはどうだった?」
「ああ、ひどい有様だったが、安静にしていれば大丈夫だ」
「そっか……よかったね」
静かだが、鉛のように重たい声。
「だったら、もういいよね?」
こちらの胸中を見透かされていることを自覚して、デシーカは裁判にかけられているような気分になった。言葉がすぐに出てこずに、空気だけを飲み込む。
弁解をまつかのように、イオはなにも言わなかった。
「ロレッタには――」
気が遠くなるような沈黙のあと、デシーカはようやくそう言った。
乾いた喉に言葉が張りつくようだった。
「――生きていてほしいんだ」
言葉にしてようやくわかった。それが偽りのない自分の気持ちなのだと。本当にそれだけだった。ロレッタ・イェンには生きて、できれば幸せになってもらいたかった。
彼女は自分がラッキーだと言うし、世界で二番目に不幸だと言うが、そうではない人生があっていい。あの気のいい連中がいる下町で、〈ラウ書店〉を静かに守っていくことくらい、ロレッタに許されたっていいだろう。
デシーカ・デグランチーヌが、妹と静かに暮らすことが許されるのなら。
だから、私は――
「イオ――」
「あたし、信じてるって言ったよね?」
「これが本当に最後だ」
「ウソだよ」
こちらの言葉をさえぎるように、イオが声を重ねてくる。
「お姉ちゃんの本当に最後は何回目? この前の仕事のときにもそう言ったじゃん!」
そのとおりだった。心配するイオに何度もそう言っては抗争の矢面に立ってきた。
だが、本当にこの前の戦争で最後になるはずだったんだ。
「いつもそうだね。お姉ちゃんにとって、ロレッタさんが大切なのはわかるよ。だけど、あたしとの暮らしを捨ててまでそうしないといけない? ずっとずっと、お姉ちゃんが望んでいたことじゃない!? あたしも、ずっとそうしたかった。ずっとまってた!」
早口で一気にまくし立てると、イオは呼吸を荒くして沈黙した。
「それは私だって同じだ」
妹の表情は見えず、デシーカは諭すような口調になっている自分に嫌気がした。
「お前と静かに暮らすことをずっと望んでいた。そのために私は、なんだってやってきた……」
「……わかってるよ、お姉ちゃん。ラウさんに助けてもらったあと、お姉ちゃんはあたしが黒社会に浸からないようにしてくれたよね。その代わりに、お姉ちゃんは〈ラウ書店〉の殺し屋になって、いっつも命を売ってきた。ようやくそこから抜け出せるんだよ? なのに、自分でそれを壊そうとしてる」
イオの声はどんどんと感情を失っていき、まるで機械が話しているようだった。
「ロレッタさんにこれ以上かまわないで。お願いだから」
冷え冷えとした余韻を残したイオの言葉は核心だった。
そしてそれは、デシーカにとってはナイフを突き立てられたようなものだった。
臓腑をえぐられるような感覚に吐き気がする。
「……わかってくれ、イオ」
妹との生活を選んでも、ロレッタはきっと許してくれる。デシーカ・デグランチーヌの幸せを祝福してくれる。彼女は自分が損をするときでも気持ちを押し殺して寂しく笑っていられる女で、自分が死ぬとわかっていてもそれは変わらなかった。
そんな彼女を放っておいて、自分だけのうのうと生きるなんてことはできない。
はじめて出会ったあのとき、差し伸べられた彼女の手を握ったときから。デシーカ・デグランチーヌはロレッタ・イェンに大きな恩があるし、それを終ぞ返していやしない。
「渡世の仁義――ってやつさ」
「バカだね、お姉ちゃん……」
妹から浴びせられたのは、諦観と嘲笑だった。
「バカだよ」
妹に近づこうとして、だが距離は縮まらなかった。
月明かりが差し込むだけの部屋の暗がりで、妹の表情はわからないままだ。昨日まであんなに近くに感じた妹が、わずか数メートルしか離れていないにもかかわらず遠くに感じる。
「―――――――――――――」
イオがなにかを独りごち、言葉はよく聞き取れないままに霧散した。
デシーカは彼女の名前を呼ぼうとして、だが声が出なかった。
まるで言葉がつうじないような感覚だけがあった。
押しつぶされるような沈黙。
それはほんの数秒だけだったのだろうが、デシーカには何時間にも思えた。
イオはこちらを見つめる視線だけを残して、ゆっくりと部屋を出ていった。
残されたデシーカは妹がいた暗がりをずっと見つめていたが、
「イオ、私は――」
込みあげてくる吐き気をおさえきれずその場にうずくまる。
「うぇっ……げほっ……!」
デシーカは胃の中身をリビングの床にぶち撒けた。
バカだよ、というイオの言葉がずっと頭のなかに響いていた。
「それでも私は――」
口元を拭いふらふらと立ちあがる。
震える手でグラスを手に取ると、デシーカは吐き気を飲む込むようにして酒を煽った。
あんなに美味いと感じた酒だったのに、喉と胃を焼く熱さはまるで心地よくなかった。




