第9話:クズ男クラウディオの誤算
一方その頃、王都にあるローズブレイド侯爵邸では。
「……ふう。今日の僕も、透き通るように美しいな」
私、クラウディオ・ローズブレイドは、姿見に映る自分にうっとりと見惚れていた。
かつては筋肉質だった体は、今や削ぎ落とされたように細い。
頬はこけ、目はぎょろりと大きく見える。肌は青白く、血管が浮き出ている。
一般人が見れば「栄養失調の幽鬼」だが、僕の美意識フィルターを通せば、これは「不純物を排除した妖精のような姿」なのだ。
「クラウディオ様ぁ、お食事の時間ですぅ」
扉が開き、愛しのミナが入ってきた。
彼女の手には、銀のトレイが乗っている。
「ありがとう、ミナ。今日のメニューは?」
「はい! 今日は奮発して、『世界樹の朝露』のビンテージと、『高山植物の吐息(ただの空気)』です!」
トレイの上には、ガラスのコップに入った水が一杯。
それだけだ。
「素晴らしい……。固形物などという、野蛮なものを摂取する必要がないとは」
僕は震える手でコップを掴んだ。
最近、少し指先に力が入らないが、これも肉体が精神に昇華している証拠だろう。
一口、飲む。
……味がしない。
冷たいだけだ。
腹の中でチャポン、と音がするだけで、空腹感はまるで満たされない。
胃袋がキュウキュウと悲鳴を上げている気がするが、僕はそれを無視した。
「ああ、清らかだ。レティシアの作る、あの脂ぎった菓子の毒が抜けていくようだね」
「そうですわぁ。あんな砂糖と油の塊を食べたら、お肌がドロドロに溶けちゃいますもの」
ミナは可愛らしく小首を傾げた。
……ん?
「ミナ? 君、口元に何かついているよ?」
彼女の艶やかな唇の端に、茶色いタレのようなものが付着していた。
それに、なんだろう。彼女から微かに漂う、この……食欲を刺激する暴力的な匂いは。
焦げた醤油? ニンニク? いや、もっと濃厚な獣の脂の匂い……。
「えっ!?」
ミナは素早く袖で口元をぬぐった。
「こ、これは泥パックの残りですぅ! 美容のために、さっきまで試していたんです!」
「なんだ、そうか。驚かせないでくれ」
僕は安堵した。僕の天使が、隠れて何かを食べているはずがない。
霞を食べて生きる彼女こそ、僕の理想なのだから。
「じゃあ私、パックを洗い流してきますね!」
ミナは慌てた様子で部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
僕は残された水を啜りながら、ふと、強烈な目眩に襲われた。
(……お腹すいた)
いや、違う! これは好転反応だ!
僕は美しい。僕は高貴だ。
僕は必死に自分に言い聞かせた。
その時、廊下の向こうから、微かに咀嚼音が聞こえたような気がした。
◇
【ミナ視点:廊下の陰にて】
「ふぅ……危なかったぁ」
私はクラウディオの部屋を出た瞬間、ドレスのポケットから『それ』を取り出した。
まだ温かい。
油紙に包まれた、分厚いサンドイッチだ。
「やっぱり男はバカね。あんな水だけで生きていけるわけないじゃない」
私は誰も見ていないことを確認し、大きく口を開けた。
ガブッ!!
「んん~っ!! 美味しいぃぃ……!」
私が食べているのは、裏ルートで手に入れた『黒雷豚の極厚カツサンド』だ。
黒雷豚は、全身に魔力を帯びた脂身を持つ希少な豚。
その肉は赤身と脂身が完璧な霜降り状態で、加熱すると脂がジュースのように溶け出す。
サクッ、ザクッ!
揚げたての衣には、粗挽きの『黄金パン粉』が使われている。
歯を立てた瞬間、クリスピーな衣が砕け、中から熱々の肉汁が鉄砲水のように噴き出す。
「はふっ、はふっ……!」
肉は分厚いのに、歯がいらないほど柔らかい。
噛むたびに、甘い脂が口の中いっぱいに広がり、特製の『黒ニンニク・ソース』のパンチの効いた味と混ざり合う。
パンは『ミルク・ブレッド』。
ふわふわでほんのり甘いパンが、溢れる肉汁とソースを余すことなく吸い込んでいる。
ソースが染みてクタクタになったパンの部分が、これまた背徳的な美味しさなのだ。
「んぐ、んぐ……。やっぱり肉よ、肉! 脂こそ正義!」
私は豚のように鼻を鳴らしながら、カツサンドを貪り食った。
クラウディオの前では「朝露ちゃん」を演じているから、反動で食欲が止まらない。
脂ぎったカツを飲み込み、最後の一欠片を口に放り込む。
指についたソースも丁寧に舐め取った。
「あー、食べた食べた。……さてと」
私は口元をハンカチで念入りに拭き、香水を振りかけた。
これで獣臭さは消えたはずだ。
「そろそろあのバカ侯爵の財産も底をつきそうね。……次はどのカモを狙おうかしら」
そんなことを考えながら廊下を歩いていると、使用人たちの噂話が耳に入ってきた。
「聞いた? 北の辺境ですごいお菓子屋さんが流行ってるんだって」
「知ってる! なんでも、『食べただけで美しくなれる奇跡のスイーツ』があるらしいよ」
「へぇ、王都の貴族たちもお忍びで行ってるみたいだね」
美しくなれるスイーツ?
そんな馬鹿な話があるわけない。
甘いものは太る。肌が荒れる。それが常識よ。
でも……。
(もし本当にそんなものがあるなら、私が食べてあげてもいいかも。それに、その店主……確か追放された元婚約者よね?)
私の女の勘が告げている。
あいつは、私の邪魔をするかもしれない。
あるいは、新しい「金づる」になるかもしれない。
私はニヤリと笑みを浮かべ、再び「可憐な少女」の仮面を被ってクラウディオの部屋へと戻った。
「クラウディオ様ぁ! 大変ですぅ。なんだか怪しい噂を聞きましたの!」
お腹の中には極厚カツサンド。
顔には天使の微笑み。
この矛盾こそが、私の美しさの秘訣なのよ。




