第2話:追放された先は魔境でした
実家に戻ると、予想通り父は顔を真っ赤にして待っていた。
「クラウディオ様になんという無礼を働いたのだ! 我が家の恥さらしめ!」
「お言葉ですがお父様。食材をゴミ扱いするような方に、ベルガモット家の娘をやるわけにはいきません」
「黙れ! 侯爵家に睨まれたら、この家はおしまいだ! お前など勘当だ、二度と敷居をまたぐな!」
怒号とともに投げつけられたのは、旅行鞄ひとつ。
中には最低限の着替えと、私が何よりも大切にしている製菓道具一式が入っている。
こうなることは薄々予感していたので、前もってまとめておいたのだ。
「ええ、喜んで出て行きますわ」
私は優雅に礼をして、深夜の屋敷を後にした。
そして馬車(片道切符の安馬車だ)に揺られること数時間。
私が降ろされたのは、王都から遠く離れた北の辺境。
人々が「魔境」と恐れる、グランヴェル公爵領との境界にある深い森の入り口だった。
◇
「……ここが、噂の『暴食の森』ね」
馬車は逃げるように去っていった。
一人残された私は、鬱蒼と茂る森を見上げる。
普通なら絶望して泣き崩れるところだろうか?
魔獣が出ると噂される森に、若い娘が一人きりなのだから。
けれど、私は大きく鼻から息を吸い込んだ。
「くん、くん……」
(……この香り、間違いないわ)
湿った土の匂いに混じって、風に乗って漂ってくる甘く濃厚な芳香。
私の固有スキル《絶対味覚》が、ビシビシと反応している。
ここは魔境なんかじゃない。
手つかずの食材の宝庫だわ!
私はブーツの紐を締め直すと、草をかき分けて森の中へと足を踏み入れた。
ドレスの裾が邪魔だけれど、そんなことは気にしていられない。
歩くこと数十分。
巨大な樹木の根元に、それはあった。
「あった……! 図鑑でしか見たことのない幻の食材!」
目の前にそびえ立つのは、樹齢千年を超えるであろう大樹『千年桜』。
その幹の裂け目から、黄金色の液体がとろり、とろりと垂れ落ちている。
『魔蜜蜂』の巣だ。
魔蜜蜂は、熊すらも一撃で仕留める凶暴な蜂として恐れられている。
けれど、彼らが集める蜜『ゴールデンハニー』は、滋養強壮、魔力回復、そして何より――。
「……世界で一番、コクのある甘味」
私はゴクリと喉を鳴らした。
幸い、今の時間は蜂たちが狩りに出払っているようだ。巣の周辺は静まり返っている。
私は鞄から消毒したガラス瓶を取り出すと、幹から垂れ落ちる黄金の雫を慎重に受け止めた。
ぽたり、ぽたり。
飴細工のように高い粘度を持った蜜が、瓶の中に溜まっていく。
夕陽を浴びてキラキラと輝くその様は、まさに液体の宝石。
瓶がいっぱいになったところで、私は我慢できずに人差し指で瓶の縁をぬぐった。
指先についた黄金のトロミを、そっと口に含む。
「んっ……!」
――衝撃が、脳天を突き抜けた。
ねっとりとした舌触りと共に、濃厚な花の香りが口いっぱいに爆発する。
ただ甘いだけではない。
千年桜のほのかな塩気と、熟成されたブランデーのような深いコク。
舌の上で転がすと、体温で温められた蜜が喉の奥へと滑り落ちていく。
その通り道が、カッと熱くなるほどのエネルギー。
(すごい……! 前の世界の蜂蜜とはレベルが違う!)
疲れ切っていた体に、魔力が満ちていくのがわかる。
肌が内側からパンと張るような感覚。
「これよ、私が求めていたのはこの力強さ!」
クラウディオ様が好むような「朝露」だの「空気」だのといったスカスカな味じゃない。
命そのものを頂くような、圧倒的な「食」の悦び。
「ふふっ、これを使って何を作ろうかしら……」
最高の素材を手に入れて、私の創作意欲は最高潮に達していた。
その時だ。
「……グルルルゥ……」
背後から、低い唸り声が聞こえたのは。
ビクリとして振り返ると、そこには巨大な影があった。
魔獣? いいえ、違う。
ボロボロの、蔦に覆われた石造りの建物。
かつては貴族の別荘だったのだろうか。森の奥にひっそりと佇む廃屋だ。
唸り声のように聞こえたのは、古びた扉が風で軋む音だったようだ。
「……あそこでなら、雨風をしのげるかも」
私は『ゴールデンハニー』の瓶を胸に抱き、その廃屋へと向かった。
中に入ると、埃被ってはいるが、しっかりとした造りのキッチンがあった。
魔導コンロも、磨けばまだ使えそうだ。
近くには清流も流れている。
「決まりね。ここを私の新しい城にしましょう」
私は腕まくりをした。
まずは掃除。そして、確保したばかりの『ゴールデンハニー』を使った、最初の一品を作るのだ。
森で拾った、殻の硬い木の実――『鋼胡桃』もある。
これと蜂蜜があれば、あれが作れる。
私のパティシエとしての血が騒ぐ。
この森で、誰に遠慮することなく、最高に甘くて、最高に罪深いお菓子を作ってやる。
そう、例えば……。
食べた瞬間に理性を溶かしてしまうような、極上のパンケーキを。
私は鍋を取り出し、鼻歌交じりで準備を始めた。




