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婚約破棄されたパティシエ令嬢は甘く誘う  作者: 九葉


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第2話:追放された先は魔境でした

実家に戻ると、予想通り父は顔を真っ赤にして待っていた。


「クラウディオ様になんという無礼を働いたのだ! 我が家の恥さらしめ!」


「お言葉ですがお父様。食材をゴミ扱いするような方に、ベルガモット家の娘をやるわけにはいきません」


「黙れ! 侯爵家に睨まれたら、この家はおしまいだ! お前など勘当だ、二度と敷居をまたぐな!」


怒号とともに投げつけられたのは、旅行鞄ひとつ。

中には最低限の着替えと、私が何よりも大切にしている製菓道具一式が入っている。


こうなることは薄々予感していたので、前もってまとめておいたのだ。


「ええ、喜んで出て行きますわ」


私は優雅に礼をして、深夜の屋敷を後にした。

そして馬車(片道切符の安馬車だ)に揺られること数時間。


私が降ろされたのは、王都から遠く離れた北の辺境。

人々が「魔境」と恐れる、グランヴェル公爵領との境界にある深い森の入り口だった。



「……ここが、噂の『暴食の森』ね」


馬車は逃げるように去っていった。

一人残された私は、鬱蒼と茂る森を見上げる。


普通なら絶望して泣き崩れるところだろうか?

魔獣が出ると噂される森に、若い娘が一人きりなのだから。


けれど、私は大きく鼻から息を吸い込んだ。


「くん、くん……」


(……この香り、間違いないわ)


湿った土の匂いに混じって、風に乗って漂ってくる甘く濃厚な芳香。

私の固有スキル《絶対味覚パーフェクト・パレッテ》が、ビシビシと反応している。


ここは魔境なんかじゃない。

手つかずの食材の宝庫だわ!


私はブーツの紐を締め直すと、草をかき分けて森の中へと足を踏み入れた。

ドレスの裾が邪魔だけれど、そんなことは気にしていられない。


歩くこと数十分。

巨大な樹木の根元に、それはあった。


「あった……! 図鑑でしか見たことのない幻の食材!」


目の前にそびえ立つのは、樹齢千年を超えるであろう大樹『千年桜ミレニアム・チェリー』。

その幹の裂け目から、黄金色の液体がとろり、とろりと垂れ落ちている。


魔蜜蜂デビル・ビー』の巣だ。


魔蜜蜂は、熊すらも一撃で仕留める凶暴な蜂として恐れられている。

けれど、彼らが集める蜜『ゴールデンハニー』は、滋養強壮、魔力回復、そして何より――。


「……世界で一番、コクのある甘味」


私はゴクリと喉を鳴らした。

幸い、今の時間は蜂たちが狩りに出払っているようだ。巣の周辺は静まり返っている。


私は鞄から消毒したガラス瓶を取り出すと、幹から垂れ落ちる黄金の雫を慎重に受け止めた。


ぽたり、ぽたり。


飴細工のように高い粘度を持った蜜が、瓶の中に溜まっていく。

夕陽を浴びてキラキラと輝くその様は、まさに液体の宝石。


瓶がいっぱいになったところで、私は我慢できずに人差し指で瓶の縁をぬぐった。

指先についた黄金のトロミを、そっと口に含む。


「んっ……!」


――衝撃が、脳天を突き抜けた。


ねっとりとした舌触りと共に、濃厚な花の香りが口いっぱいに爆発する。

ただ甘いだけではない。

千年桜のほのかな塩気と、熟成されたブランデーのような深いコク。


舌の上で転がすと、体温で温められた蜜が喉の奥へと滑り落ちていく。

その通り道が、カッと熱くなるほどのエネルギー。


(すごい……! 前の世界の蜂蜜とはレベルが違う!)


疲れ切っていた体に、魔力が満ちていくのがわかる。

肌が内側からパンと張るような感覚。


「これよ、私が求めていたのはこの力強さ!」


クラウディオ様が好むような「朝露」だの「空気」だのといったスカスカな味じゃない。

命そのものを頂くような、圧倒的な「食」の悦び。


「ふふっ、これを使って何を作ろうかしら……」


最高の素材を手に入れて、私の創作意欲は最高潮に達していた。


その時だ。


「……グルルルゥ……」


背後から、低い唸り声が聞こえたのは。


ビクリとして振り返ると、そこには巨大な影があった。

魔獣? いいえ、違う。


ボロボロの、蔦に覆われた石造りの建物。

かつては貴族の別荘だったのだろうか。森の奥にひっそりと佇む廃屋だ。


唸り声のように聞こえたのは、古びた扉が風で軋む音だったようだ。


「……あそこでなら、雨風をしのげるかも」


私は『ゴールデンハニー』の瓶を胸に抱き、その廃屋へと向かった。


中に入ると、埃被ってはいるが、しっかりとした造りのキッチンがあった。

魔導コンロも、磨けばまだ使えそうだ。

近くには清流も流れている。


「決まりね。ここを私の新しいアトリエにしましょう」


私は腕まくりをした。

まずは掃除。そして、確保したばかりの『ゴールデンハニー』を使った、最初の一品を作るのだ。


森で拾った、殻の硬い木の実――『鋼胡桃アダマン・ウォルナット』もある。

これと蜂蜜があれば、あれが作れる。


私のパティシエとしての血が騒ぐ。

この森で、誰に遠慮することなく、最高に甘くて、最高に罪深いお菓子を作ってやる。


そう、例えば……。

食べた瞬間に理性を溶かしてしまうような、極上のパンケーキを。


私は鍋を取り出し、鼻歌交じりで準備を始めた。

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