むくろ川
地方都市でミニコミ誌のライターをしていると、だんだんネタに詰まってくる。
田舎では、地元の名店や老舗企業の紹介にも限界がある。かといって、名所旧跡の取材記では本誌への広告や配布にはつながらない。編集長の渋い顔が脳裏に浮かぶ。
というわけで、俺はネタ探しに県立図書館に出張った。
ここなら昔の地図が閲覧できる。そこにヒントを見いだそうという魂胆だ。
江戸時代の地図を眺めていると、ちょっと理解に苦しむ文字列が目についた。
「むくろ川」
いつも編集部への行き帰りに渡っているさくら川の位置だ。河道は深く地面をえぐっており、川辺に降りることは禁止されていた。
過去に多くの死体が流れるようなことがあったのだろうか。上流で激しい戦闘があったといったような。
町史のコーナーに行く。
巻末の索引で「むくろ川」を探す。残念ながら項目は立っていない。
平成の町村大合併以前の町村史をまとめて書庫から出してもらう。丹念に読んでいくと、昭和の後期にむくろ川がさくら川に改称されていたらしいとわかった。
今の地図とつきあわせると理由がわかった。
食品会社の工場がさくら川の河畔に鎮座しているのだ。
元々県外に本拠地があった会社で、わざわざ誘致されて今の場所に移ってきた。フリーズドライの味噌汁やスープの元で有名な会社だ。いっとき倒産しかけて、地元の資本が買い取ったとも言われている。
当時、町と県は水のよさを売りにして企業を招こうとしたが、むくろ川という縁起の悪い名前がネックとなった。そこで、県はその名前を当り障りのないさくら川に変更した。そして、河畔に桜の木を植えた。今では知る人ぞ知る花見の名所だ。
以降、むくろ川の名前は公的記録には一切出なくなる。ついでに言えば、工場が建っているあたりは昔の地図ではぬた野と呼ばれていて湿地帯だったらしい。地盤改良工事はさぞ大変だったろう。
いろんな地誌を読んでみる。
むくろ川の由来はわからない。ただ、昔からむくろ川なのだ。室町の頃からむくろ川なのだ。
こういう時は地元の古老にきくに限る。意外と伝承が残っているかもしれない。
俺は翌朝、婆ちゃんが入っている老人ホームへと向かった。
さくら川沿いの旧道を走るコミュニティーバスに乗る。一日数本の地元民の足だ。十六時台には終バス、という残念な路線。食品工場の正門前を通り過ぎて、いくつかの集落を越える。その先に町営の特別養護老人ホームがある。終点は民営のちょっと大きな葬儀場だ。
デイルームという名の面会室で待っていると、職員に車椅子を押された婆ちゃんが登場した。おみやげの饅頭を取り出し、お茶を二人分、用意する。
ひととおり近況報告をしてから、本題に入る。
「お婆ちゃん、むくろ川って知ってる?」
「ええ、さくら川の昔の名前でしょ。昔は夏休みになるとよく、素っ裸で泳いだものよ」
いきなり面白い情報をぶっ込んでくれる。
「素っ裸で?」
「小学校の頃よ。男子も女子も素っ裸。水着なんてのは学校の授業でだけ。今じゃもう考えられないでしょうね」
「ははは。そもそもさくら川は遊泳禁止だよ」
「まあ、毎年一人は流されてカッパになっちゃったからねえ。今の子はカッパにもなれなくて可哀想だねえ」
婆ちゃんは軽く涙ぐんでいる。昔の人の価値観はいまいちわからない。それとも「カッパになった」同級生のことでも思い出したのだろうか。
「で、むくろ川の名前なんだけど。何でそんな名前になったの?」
「むくろ川、ねえ。……ねえ、誰かむくろ川の名前の由来を知ってる?」
婆ちゃんは、周りの入居者を呼び集める。みんなお婆ちゃんばかりだ。
「さあねえ。私ら生れた時からむくろ川っていってたからねえ」
「伝説とか噂でもいいんですけど、何かきいたことはありませんか」
「そうねえ。長老なら知ってるかもしれないけど…… あの人、よくホラを吹くからねえ」
婆ちゃんたちは、わっはっはっと笑う。
何度も通っている老人ホームだったが、長老という人物についてきくのは初めてだった。
「どんな人なんです?」
「地元の郷土史研究家のお爺さん。何冊か本も出しているみたいよ」
「そうそう、遊郭とか夜這いのね」
わっはっはっ、と婆ちゃんたちが笑う。
「一番奥の特別室でふんぞり返っているの。……そういえば、最近はお見舞いの人も見ないわねえ」
「そうね。ここ十年ほど見かけてないわね」
「そりゃあ言い過ぎだよ。せいぜいがとこ五年でしょ」
「寝たきりだから仕方ないじゃない。点滴の管を刺されてさあ。あたしらもいつそうなるかわからないよ」
わっはっはっと笑う。やはりお年寄りの笑いのポイントはよくわからない。
というわけで、俺は施設長と長老自身の許可をもらって、病室に入った。
黒檀や紫檀の調度品が並んだ豪華な部屋で、壁際には絵や壺が飾ってある。いかにも素封家という感じだ。
「仲良井と申します。地元の雑誌でフリーライターをやっております」
名刺を差し出す。
「おおっ、それはそれは。ご苦労様です」
老人は、嬉しそうに笑う。年は九十以上か。髪の毛はほとんで抜けおちていて、シミだらけの肌だ。鼻の下には空気を送る管があり、腕には点滴が刺さっている。
「実は、むくろ川の名前の由来についておたずねしたいのです。何か聞かれてますでしょうか」
「むくろ川か。その呼び方を聞いたのは三十年ぶりくらいかな」
老人の、白内障で濁りかけた目がにわかに生気を帯びる。
「この話は、必ず雑誌に載せるのかね」と老人。
「今の段階で、確約はできません。今の住民や企業に迷惑がかかるような話だったら、掲載は見合わせます」
そう。うちは単なるフリーペーパーなのだ。吹けば飛ぶような小資本、書店に並ぶ週刊なんちゃらといったカストリ雑誌とはわけが違う。
「そうか、安心したよ。あまり気持のいい話ではないのでな」
かっかっかっ、と笑う。そして、ストローのついたジュースを飲むと話し出した。
「その昔、ぬた野のあたりは罪人を埋める場所だったんよ。まあ、罪人と言っても、村の掟をやぶったとか、年貢をごまかしたとか、その程度でも埋められたらしい。悪ガキなんかも容赦なく荒縄で縛って沼地に沈めたと聞いている。間引かれた赤ん坊なんかもな。……まあ、それがあたりまえの時代だったわけよ」
長老は、タバコに火をつける。老人ホームの中は禁煙のはずだが、この部屋では適用されないらしい。
「で、大雨が降るとぬた野から沈めておいたむくろが流れ出る。腐りかけの死体がいくつもいくつも。で、下流の連中がいつとはなしにむくろ川と言い出した。それだけの話さ」
「今も食品工場の下には死体が埋もれているのでしょうか。その水を使って食品を作っている、と」
「さあね。だが、それも戦前までの風習だから。最近は火葬しかしないし、しかばねが流れ出たという話はきかないね」
老人は、灰皿を引き寄せてタバコを念入りに押しつぶす。
「知っているかね。この町は県内の行き倒れやら引き取り手のない遺体の火葬を一手に引き受けているんだよ」
初耳だった。この土地で生れ育った婆ちゃんですらそんなことは言ってなかった。
「その際に、別の遺体も一緒に焼くんだが、これが結構、金になる」
「へ?」
「日本の失踪者は年間何人くらいか知っているかね」
老人は、次のタバコに火をつける。手が震えていて。枯れ枝のような指に火がつかないかと不安なるくらいだ。
「大体、年に八万人といったところだ。この県でも、毎年、千人くらいは消えている、はずだ。それだけの人間がどこで煙になっていると思うね。むくろ川の上流にある焼き場――火葬場だよ」
「でも、遺体を二つに重ねにしたら重いんじゃないですか」
「そう。そこで食品工場の出番だ。君は、人体の何パーセントが水か知っているかね」
「六十パーセントぐらいでしょうか」
「そうだ。その水分を抜くには、何が最適だと思う」
「生石灰につけるか、煙でいぶすか……」
「それでも可能だが、時間がかかる。もっと手っ取り早く重さを三分の一くらいにする方法があるのだよ。フリーズドライといってね」
老人はにやにやしながらインスタントコーヒーが置いてある流しを指さす。確かにインスタントコーヒーはフリーズドライで作られている。
「実は、無縁仏の棺桶は二重底になっている。底には乾燥した死体が隠されている」
「それだとお骨が残るんじゃないですか」
「そんなもの、焼き切りだよ。無縁仏はそもそもお骨の引き取り手がいない。火葬場では火力を目一杯にして焼く。その灰は、他の遺灰とともに川上の寺に送られる。寺では大雨の日にその灰を川に流す。むくろ川――今のさくら川へとね」
長老は、にやにやしながら、またタバコをすりつぶした。
「どうだね。記事にしてみるかね。もっとも、記事にしたところで誰も信じないだろうがね。そして、県警も政治家も絶対に動くことはない。公然の秘密なのでな」
俺は、頭に鈍痛を覚えた。
「気が向いたらまた顔を見せてくれたまえ。そろそろ私は昼寝の時間だ」
長老は、呼び出しボタンを押した。
職員がやってくる。
長老は職員に俺の名刺を渡す。
「こちらの雑誌に広告を出してやってくれ。まあ、裏面の一ページでよかろう。あと、工場長にも連絡してくれ。ここの雑誌になら広告を載せてやってもいいんじゃないか、てね」
「はい、かしこまりました」
唯々諾々と従う職員。
おそらく、この人はこの老人ホームのオーナーなのだ。そして、この県の裏世界の元締めの一人でもある。
長老がこちらに顔を向けた。
「こちらにはバスで来たのかね」
「はい」
「ここのバスは、おわるのが早い。そろそろバス停に向かった方がいいと思うよ」
「はい」
俺は、鉛のような暗い気分を胸に、老人ホームを後にしたのだった。
そして数日後。
さくら川は百年に一度というゲリラ豪雨で自慢の桜林を根こそぎ流される。そして、下流の市町村では漂着した大量の人骨に悩まれることになるのだった。
桜の木の下には死体が埋まっている、という言い伝えは本当だったのだ。