表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

お兄ちゃんの授業1

 それじゃあ一つ、このことについてこれから考えてみましょうか。我々一人々々、個々の人間――と言うとまたややこしい話になりますから、もう少し単純に“私”という風にしてみましょう。つまり、“私”というものが確かに間違いなくあるのではないか、とこういうことになりますですな。

 ふむ、皆さんお察しの通り、ちょっと難しい問題です。先ずこの“私”というもの、これについてだけでも実に大きな問題ですし、その上“ある”なんて、どんな人でも頭を抱えてしまうような単語までがくっついている。益々手が付けられなくなるわけです。この二つの言葉に関してだけでも、きっと何巻かの分厚い本が必要になりましょう。昔からこれらについて、頭抜けて賢い人達が主なものだけでも何十冊もの本を書いています。そうすると今度は、なかなかに頭のいい人達がそれらについての本を何百冊も書く、となると更に調子に乗って普通に頭のいい人達が、我も我もとそれら何十冊×何百冊の本にまた何千冊も書くことになる―――。さてさて、しかも昨今の人類は、個々人が輝く時代とか全ての人間の能力には限りがないとか、大いにおだてられているものだから、現代社会には一家言を持った人達がわんさと現れて来ております。そうした連中がインターネット上で喧々諤々、議論百出、百家争鳴、百鬼夜行を派手にやらかしているといった有様、何が何やら訳が分かりません。確かにこれはこれで大変良いことなんですが、浜の真砂は尽きるとも世に何たらの種は尽きまじ、という通りでその全部を調べようとしましても―――そりゃ無理です。

 こんな難儀な時代に生まれたのは、皆さん、これは致し方ないことであります。従いまして運命として諦めていただくしかないのです。で、何を言いたいかと申しますと、先程の問題、私というものは確かにあるに違いない、という意見の是非について考えてみる際、少し問題の立て方を変える必要があるのではないか、ということなのです。

 ではどんな風に変えてみるべきか、と言うとやっぱりこれも難しい、本来難しいものを分かり易く、平明に、単純に――しようということ、当然難しくなりますよね。しかし間違いなく、何とかしなければならないことなのです。

 眼前のこの難問に先ず解答を試みてみましょう。私があるということの確実さを知りたい、ということがまずもっての目的でした。しかしこの目的をそのままの形で立てておくと取掛かりがない、いや、無いわけではないんだけれどあまり困難に過ぎる。さっきお話しした何百冊、ことによったら何千冊もの本を読んで理解し検討しなければならなくなる。こんなことはちょっと無理だ。皆さんの中で、よし我こそが万巻の書を読破して真理を把握してみせる、という殊勝な方がお見えになるかもわかりません。しかしそれが上手くいったとしても、その真理を手に入れる頃には恐らく、それら立派な人達もおじいさんおばあさんになってしまっているでしょうが、残念ながらそんなには待てない。ではどうすればよいか。

 私が確かにある、という文章、言葉から考えようとすると前にお話ししたように、“私”とか“ある”とかいうものを一つ一つ取り上げて、それらについて論じている多くの本を読み、その意味内容を詳しく調べ、その上で再び“私が確かにある”というような文章に組み立て直し、その全体の意味するところを確定する、という艱難辛苦を乗り越えて行かなければならない、で、これはちょっと出来かねるなあというのは前言の通りです。そこで提案なのですが、私が確かにある、とは何ぞや、と考えるような仕方ではなく、私が確かにあると私が考える、ということはどういうことなのか、という問いへと立て直しを行なってみてはいかがでしょうか。

 また妙なことを言い出したな、と思われるかも知れない。ごもっとも、私だっていきなりこんなことを言われたとしたら、ちんぷんかんぷんに違いありませんから。ただちょっと考えてみていただきたい。そんなに突拍子もないことを言っているわけではないのですよ。この場合、何を問いの対象にしているのかということが問題になってきます。前の方、そのためには何千冊もの難しい本を読まねばならないような方法における対象は、端的に言って、私が確かにあるという文章です。それに対して後の方のやり方においてのその対象は、私が確かにある、と私が考えている状態ということになります。言葉にするとややこしいのですが、その内容は至極簡単でとどのつまり、私が考えていることを意識的に体験して更にそれを反省してみよう、ということです。押しても駄目なら引いてみろ、ではないですけれど、言葉そのものを考えても埒が明かないのなら体験しつつあることを考えてみよう、ということです。私が確かにある、という文章そのものの意味内容を追求するのではなく、私が確かにあると考えている行為そのものの意味内容を追求してみよう、と言うのです。

 今私は変なことを言ってしまいました。私が確かにあると考えている行為そのものの意味内容―――考えている行為?またまた妙ちきりんな表現です。しかし、言い訳ではありませんが、こういうことはよくあることなのです。一生懸命考えながら喋っていると、思いついたいくつかの単語を引っ付けて、その言葉の意味やその表現の妥当性をよく吟味もせずに口に出してしまう。それで後から、ああ、あんなこと言うんじゃなかった、と悔やむわけです。でもまあ、一度言ってしまったことは仕方がない、中断せずに話を続けましょう。再度言い訳がましくなりますが、勿論全くの出鱈目を言っているわけでもないのですからね、ほんとですよ。

 そこで“私は確かにあると考えている行為そのものの意味内容”についてですが、その前に今回質問してくれた彼、彼がこうした疑問を抱いたのはおそらく―――おそらくはですよ、“私は考える、故に私は存在する”というような、あの有名な言葉に基づいてのことではではなかったか、と思われます。あのフランス国の大変偉い学者の有名な言葉です。そうではないでしょうか?―――うん、そう、いろんな人の意見を聞いて、またそれらを糧に自分自身で色々と考えて、そうして自分の意見をまとめていったと、大したものだと思いますよ、その年で、まあ、そんな奥の深い難しいことを。きっと周りの友達連中はそんな話には付き合ってくれないであろうものを。だからただただ独りで考えなきゃいけない。実に大したものだ。――――あ、いや、決して茶化しているんじゃありませんよ。本気で褒めているんです。誤解のないよう。本気で感心しているからこそ、ここ、今この場で私は無い知恵を絞ってその質問にお答えしようとしているわけなんです。この苦労を是非、共感をもって理解していただきたい。いや、話がそれました。

 その偉い学者の言葉です。彼に確認したところ、特にその“私は考える、故に私は存在する”という言葉が今回の質問に直接関わっているわけではない、とのことでした。ですからこの有名な言葉は、偶々私が思いついたものなのです。彼の疑問は、何しろ私の先程お話した事柄、平たく言えば仏様のお教えに対するものだったわけですからね。西洋と東洋と、えらく離れております。だから本当に偶々思いついただけなのだ、とうっちゃってしまうことも十分理由のあることです。

 しかし皆さん、お願いです。いやはや、何度もお願いばかりで申し訳ありません。思い付きを組み立てながら喋っていると、どうしてもこうなってしまう。で、何をお願いするのかと言うと、この私の思い付き、偉大なあのフランス人の有名な言葉です。これは案外、今回私達を悩ませている問題を考えて行く上で重要な手がかりなのではないか、と考えていただけないかと、そういうお願いです。さあ、私はお願いお願いと言ってはおりますが、実は頼んだよろしくと言っているということ、勘のよろしい皆さんなら薄々感づいておられるでしょうね。ご推察の通り、そういうことでよろしく“お願い”いたします。

 厚かましくも要求させていただきました。異議もございませんようですので、ああ、動かないでね、手なんか挙げちゃ駄目ですよ。異議がないと決めました、誰が?この私が、はい時間切れ、はい、ではこの線に沿ってお話を続けます、よろしいですね。

 そうしましたら、この言葉“私は考える、故に私は存在する”と言うものですが、どうです、どこをどう見たってその通りですよね。文句のつけようがありませんよね。全く仰るとおり、ご説ごもっともです。ただ、ここでちょっと気を付けて頂きたい。文章の構造です。“私は考える”という文章がある。それから“私は存在する”という文がある。そしてその二つを“故に”という言葉で結んでいる。こんな具合になっています。そこで気を付けて頂きたいのは、この“故に”という言葉です。この“故に”とはどういう意味でしょう。皆さんよくご存知ですね。だから、とか従って、とかそんなような意味です。普通に考えると、これは理由を表しますから“私は考える”“から”“私は存在する”ということになり、“―は考える”という理由から“私は存在する”という帰結が導き出される、ということになります。でもどうですか、皆さん、この説明で十分納得できますでしょうか。“私は考える”ということが理由で、“私が存在する”というのが帰結?じゃあそれは判断であって、この文章が本当に主張しなければならないはずの“わたしは存在する”ということは別のことになりはすまいか――――こんな風に感じられませんか。

 では別様に考えるべきなのか。そうすると“私は考える”“ことによって”“私は存在する”と言う風に考えることになりましょう。これも“故に”という言葉を、理由付けの意味からこの文章をきちんと理解していることになります。しかし皆さん再度、どうでしょう。これも何かしら肯首しかねるような雰囲気がありはしませんか。大体、これでは“私は考える”ことが“私は存在する”ことの原因になってしまう。流石に皆さん、おかしいですよね、明らかに。

 このようなことは誰もが思うことで、ですからしばしばこの言葉は“私は考える、私は存在する”と書き直されます。色々な困難をもたらす“故に”という接続詞を取っ払ってしまおうと、随分乱暴な話ですね。この表現に従いますと、“私は考える”ということと“私は存在する”ということは同じなんだ、ということになります。“私が考える”ことによって“私が存在する”ということが確認される。“私が存在する”ということは“私が考える”ということによって了解可能となる、というような訳です。同じということ、皆さんが算数で習ったイコールというもの、記号で書くと等しい長さの線を二本上下に並べたものです。そうすると先程言いました、理由と帰結、原因と結果というそれぞれ対になった、理由付けの表現二つが合わさったようなことになるわけなんですが―――どうでしょうか、皆さん、納得できますでしょうか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ