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その七(最終回)

 

 私が迷っている間に男性はマンションのエントランスに着いてしまった。ちょうどごみ袋を持って出てきた老婦人と挨拶を交わした。

 その様子に私はマンションに戻りながら、老婦人に接近した。

 ほぼ同時に会釈を交わす。

 すれ違う時に思いきって訊ねた。

「あのぉ、今、エントランスで挨拶してらした方はどなたですか?」

 老婦人は少し目を見開いた。

「あの方が何か?」

「今、あることを手伝ってくださったんです。それで改めてお礼をしようと、お名前を伺ったんですが、教えてもらえなくて……」

 老婦人は私の言葉にあの男性に負けないような優しい笑顔を見せた。

「ふふふ。あの子らしいわね~。七○一号室の河野さんですよ。救急隊員をしてらっしゃるからか、困っている人を見ると、放っておけないようね。隣に住んでるおかげで、これまでに私も何度か助けてもらいました」


 救急隊員!同じマンションの別棟に!

 ……とはいえ、三日に春日君を運んだ救急隊員とは限らない。そんな狭い世間の偶然があるとは考えにくい。

 名字と何号室に住んでいるかわかったから、そのうちちゃんとお礼に行こう。


 考えただけで、心がときめいた。


 そこで冷静になった。


 何考えてんだ、私は。

 相手はもう結婚しているに違いない。結婚していなくても、恋人がいる。きっといる。あんなに優しい人なんだから。 



 我が家の玄関を開けたときには頭から河野さんのことを消し去り、上がり框で黒いビニール袋を用心深く開けた。

 ひょっとしたら、開けた途端、テニラケスニーカーが飛びかかってくるかもしれないと思ったのだ。

 袋を開けてしばらく身構えたが、靴が飛び出すことはなかった。

 私はそっと中を覗いた。

 ちゃんとテニラケスニーカーが入っていた。

 大量のごみ袋に触れたことを思いだし、黒いビニール袋に入れたまま、いったん三和土にスニーカーを置いて私は手を洗いに洗面所へ行った。

 綺麗な手で袋から取り出すことがテニラケスニーカーへの礼儀だと思ったのだ。


 玄関に戻り、そっとビニール袋からテニラケスニーカーを出した。そっと三和土に置く。

 テニラケスニーカーが愛おしく思えた。


 私はすっかり忘れていたのに、テニラケスニーカーは押入れの中でじっと待っていたのだ。再び私が取り出すことを。

 その間に謎の能力を身に付けたのか。どうして?どうやって?


 ……考えるのはよそう。考えてわかることではない。


 あのテニラケスニーカーときたら、ちょっと……いや、かなりの自信家で押しつけがましく、起きている時に会話できないのは致命的とも言える問題だが、いなくなったら、寂しくなる。単純に仲良くもなれないし、縁も切れない。

 こういう気持ちになる関係って、何だろう?


 ……兄弟姉妹(きょうだい)


 ああ、そうだ。きっと、兄弟姉妹に感じる気持ちだ。

 私は独りっ子だから、兄弟姉妹がほしくて、小学生くらいまでは人形やぬいぐるみに時々話しかけてたっけ……そうそう、テニラケスニーカーにも話しかけたりしていた。独り遊びの一つだ。そんなことも忘れていた……

 ……夢で話すことができるのは、靴よりぬいぐるみの方が良かったけど……


 あくびが出た。

 眠い。


 テニラケスニーカーのワンポイント刺繍を撫でてみた。

 あの頃、ある外国人テニスプレイヤーが大好きになり、買ってもらったスニーカーだった。けれど、この靴を履きだしてからは、そのテニスプレイヤーのことをあまり考えてなかった気がする。子どもらしい気まぐれだったか。


「早起きしすぎたから、もう一回寝るよ」

 私はテニラケスニーカーにそう言って部屋に戻った。

 瞼は重く、気持ちは軽かった。


 再びパジャマに着替えて布団に入った。あっという間に寝ついたようだ。



「よかった~!またこうして話せる!」

 テニラケスニーカーが巨大化し、例のごとく白とグレーのラバーソウルを見せた。


「お願いだから、急に動かなくなったり、勝手に足を動かすのは止めて。私の行動を止めたい時にはもっと穏やかな方法で止めて」

「そんな方法、思いつかない。靴なんだから」


 きっぱり言いきりやがった。こんなときには靴であることを強調する。


「河野さん、いい人でしょ~」


 突然振ってきた。私はどぎまぎした。


「え……あ……うん。優しい人だね。救急隊員が同じマンションに住んでるとは知らなかった」

「しっかり捕まえるのよ。あんないい人、めったにいないんだから」

「は?!」

「しらばっくれないよーに。彼があたしの言ってた運命の人だって、わかったでしょ」


 いや、わかってない。それに「運命の出会い」とは言ったが、「運命の人」とは言わなかったではないか。


……では、あの人が三日に春日君を病院へ運んでいった救急隊員の一人?そんな世間の狭いことが!!


「お礼に行くときには私を履いていくこと。うまくいくから」


 同じマンション内だから、スニーカーで行くことに問題はないが、「うまくいくから」が信用できない。


「今年は就職活動だね~」


 去年から始めてるけどね。なんだ、この話題の転換は……


「就職先は絶対スニーカー勤務OKのところよ。そしたら、きっと採用されるから。あたしがついてるもの」

「は?!そんなところめったにないよ!」

「そんなところ、結構あるよ~。知らないの?ちゃんと募集要項読まなきゃ」


 こいつ、調子にのりやがって……


 私は早くも必死になってごみ袋から取り返してきたことを後悔し始めた。


 やっぱりとんでもない疫病神なんじゃ……


 そう思う一方で、テニラケスニーカーとの一筋縄ではいかない会話を楽しんでいる自分に気づいた。


 少しずつ、意思の疎通をはかろう……そのうちもう少しスムーズなやりとりが……


「面接にはあたし必携だからね」

「ええっ?!何言ってんの!スニーカーなんか履いていったら、即不採用だよ!」

「『履け』って言ってないわよ。『必携』って言ったの」


 リクルートスーツに身をかためた私が面接会場で筆記用具を取り出そうとバッグを開けたらテニラケスニーカーが入っていて、椅子から転げ落ちそうになる様子が頭に浮かんだ。


 冗談じゃない!!

 これは、やっぱり前途多難では……


 目の前の白とグレーのラバーソウルの模様が笑っているように見えてきた。


「最後には上手くいくの。信じてよね」





 ―― おわり ―― (たぶん)





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