その一
それは小学校一年生の時に買ってもらった靴だった。
通学に履くための、脱ぎ履きしやすい白のスリッポンタイプのスニーカーで、ベロの外側に小さな青いテニスラケットの刺繍が縫いつけられていた。
サイズは当時の足の大きさより少し大きめの19cm。
気に入ってよく履いていた記憶がある。
足が大きくなり、靴もボロくなり、とっくに捨てたと思っていたその靴が、大学三年の冬、年末の大掃除をしていた時に押し入れの奥から出てきた。
私も驚いたが、母はもっと驚いていた。
薄汚れたその靴を見て、昔の記憶が甦り、母と昔話で盛り上った。
「この靴、どうする?」と、母。
「どうするったって……棄てるしかないでしょ」
「あんたが残しておいたんじゃないの?」
「そんなことしてないよ!」
「そう?かなり気に入ってた靴じゃない」
「そりゃ、買ってもらった直後はね」
母はとりあえず……と、靴をLDKの隅に置いた。
年内のゴミ収集は、ちょうどその日の朝が最後だったから、棄てられるのは年明けである。
その夜、不思議な夢を見た。
テニスラケットの刺繍入りスニーカーが目の前でむくむくと巨大化し、喋ったのだ!いや、正確にはその声が聞こえたのだ!
「久しぶり!明日からまた履いてね!」
履けるわけないじゃん。今の足のサイズは23cmだよ。
朝起きたら、昨夜LDKに置いたはずのその靴が、なんと!ベッド脇にあり、なんと!サイズが大きくなっていた。
しかも、よくみると、色も昨夜の灰色のグラデーションと違って真っ白に見えた。
周囲には謎の薄茶色の埃や糸屑のようなものが散乱している。
私はベッドに上半身を起こしたところから暫く動けなかった。
まだ夢を見てるんじゃないかと思った。
ベッドに腰掛け、そっと靴に足を入れてみた。(ベッドから履ける位置にあったのだ)
素足では少し大きいくらいで、靴下を履けばちょうどだと思った。
ンなバカな……
まだ夢の続きを見てるんじゃないかと思った。
ならば、もう一度寝ようと、靴から足を抜き出し、再びすっぽりと布団に潜り込んだ。
母親の「いつまで寝てるの!起きなさい!」という声に目が覚めた。
時計をみると、まもなく十時半。
やれやれと上半身を起こし、スリッパを履くつもりで床を見た。
そこにスリッパはなく、先ほどと同様にテニスラケットの刺繍付きの真っ白なスリッポンがあった。
薄茶色の埃や糸屑も周囲に散乱している。
……夢じゃなかったんだ……
呆然と靴を見つめた。
昨夜ベッドに入るときに脱いだはずのスリッパを探すと、蹴散らされたかのように一つは入口近く、一つは窓際に置かれた机の下にひっくり返った状態であった。
しかし……見れば見るほど目の前のスニーカーが、昨日のあのスニーカーだとは思えない。サイズが違うし、同じ型の新品としか思えない。しかし……
頭の中が?だらけになりながら着替え、靴を片手にLDKへ行った。
「お母さん、なんでコレ、あたしの部屋に持ってきたの?」
私がスニーカーをつき出すと、母は怪訝な顔をした。
「そんなことしてないわよ。……って、あんたいつの間にそんな靴買ったの?新品じゃない」
「買ってない。お母さんでしょ?」
「服も靴も、ひとが選んだのは気に入らないんだから、今さらそんな余計なことしないわよ。それにしても、今でもその靴売ってんのね~」
「……」
ここにあったボロ靴はどうしたのと尋ねたら、母は知らないと一言。疑いの目でこっちを見ている……
ともかくもそのスニーカーを昨夜置いたLDKの隅に再び置き、その日は予定どおり、午後は友人の家へ出掛けた。
帰ってきた時もそのスニーカーはLDKの隅にあった。
「なんで履いてくれないの!あんたのために脱皮してサイズは合わせたし、色も真っ白に整えたのよ」
巨大化したあのスニーカーが目の前に迫ってきた。
「わ、わかった。明日は出かけるとき履いてくから……」
「よし!約束したからね!約束破ったら、どうなるか……」
巨大なスニーカーが立ち上がった……かのように、白とグレーのラバーソウルが眼前に広がった。
「ひえ~っ!!!」
そこで目が覚めた。
ベッドから床を見た。
やっぱりあのスニーカーがそこにあった。
「脱皮……って、言ってたような……靴が脱皮???」
あの、昨日の朝、靴の周囲に散乱していた糸屑や埃は「脱皮」したカワだったのか?!
ンなバカな……
ゾゾッと寒気がした。
夢とはいえ履くと約束してしまったので、試しにその靴を履いて近所へ買い物に出かけることにした。
近所の買い物に、カーゴパンツを履いてなら、行ける。テニスラケットの刺繍がパンツの裾で隠れる、と踏んでのことだ。
21歳になった目で見ると、どう贔屓目に見ようとしてもダサい靴である。
歩いている時にチラリと見えるかもしれないが、人目を引くことはないだろう。
近くのスーパーの入った大型商業施設まで徒歩約10分。
時々マンションのエントランスやショーウィンドウの大きなガラス窓で歩いている間にテニスラケットの刺繍がどの程度見えてしまうか確認しつつ歩いた。
悔しいことに靴の履き心地はとんでもなく良かった。
まるでオーダーメイドしたように足に馴染んでいたのだ。
変な目で見られることなく、無事に自分の小物や本と、母に頼まれた野菜や卵の買い物を済ませた。
やれやれという気分で帰路についた。
いつもの買い物より疲れていた。
帰路の中ほどで長めの横断歩道を渡る。
信号が青になり、渡ろうとした時だった。
靴が動かなかった。
「え?」と思う間もなく、びったーん!と変な音がして痛みが全身を走った。
履いてる人物が前に進もうとしているのに、突然靴だけが動かなかったとなると、何が起こるか。
当然、コケる。しかもかなりの勢いで。
なんとか両手をついて顔面の路面激突は免れたが、ほぼ全身をアスファルトに打ち付けた。
「痛た……」
唸っている間にキキーッと嫌な音が耳に入り、顔を上げたら、目の前を車が猛スピードで通り過ぎていった。
悲鳴が谺した。
どれくらいアスファルトに突っ伏していたのか、わからない。
「大丈夫か?」というような声が複数聞こえた。
呆然と身体を起こした。
車が通ったあとにはつぶれた卵から出たと思われる黄色と透明なドロリとした液体が広がっていた。
た、卵……せっかく買った物……いや、それよりも、靴……
足を動かすと、靴は普通に動いた。
さっきのあのアスファルトにくっついたようだったのは、何?