婚約者を見習って、浮気相手を探すことにしました
物心ついた時には、自分は特別だと知っていた。
自分の部屋のバルコニーから見下ろす庭園は、この間遊びに出かけた街で一番大きい公園より広かった。この国でも最先端の技術である自動で開閉する門の先に延びる道は、1ヘクタール以上ある森を抜けなければ、その街の最寄りの街道へ辿り着けない。屋敷と同じだけ広い森の半分は果樹園だから、そこで雇用している人たちのために街までそのためだけの小さな鉄道を通してあった。
俺の靴裏は汚れない。俺の歩く道には、いつだって赤い絨毯が道を作るからだ。
そんな特別な生まれの何でも器用にこなせた男は、ある時我儘を一つ言った。
『母様のオルゴールが欲しいです』
母様が嫁入り道具の一つとして持ってきていた、クリスタルできたそれ。子煩悩だった母は、教育を乳母任せずにせず、公爵夫人の合間に母親をきちんとしてくれていた。毎晩母の部屋で寝る時間まで本を読み聞かせてくれたのだ。その時、最後は決まってオルゴールの音色を聴かせてくれた。精巧に掘り込まれたチューリップの花と蛙、蓋を開ければ、薄紅色のドレスを着た金髪碧眼の陶器できたお姫様が、くるくると楽しそうに踊ってくれていた。
何でもあったからか、何かが欲しいと我儘を言ったのはこれが初めてだったように思う。
『これはね、あなたのお嫁さんに譲るって決めているからダメよ』
優しく笑ってそう言った母親に、ひどくがっかりした。けれど、半月もしないうちに俺はお嫁さんを見つける。その時、二回目の我儘を言ったのだ。
『お嫁さんは、あの子じゃないと嫌です』
大事に大事に、オルゴールの中に閉じ込めるように…大切にしてきたはずだった。
どこから狂ったのか、自分でもよく思い出せない。
『身投げした?』
そうか……じゃあ、俺が川底まで彼女を探し行ってあげないと。
だって、彼女は『俺のいない世界で恋なんてできない』んだから。
最後にもらった手紙に、そう書いてあったんだ。
“あなたは、私のいなくなった世界でも恋をするのでしょうね”
※※
「私が学園へ行く必要がありますの?」
「俺が一緒に行きたいんだ」
「しばらく制服に袖を通しておりませんでしたので、少し窮屈なんですのよ…」
「押し倒したくなるから、あまりそういうことは言わないで」
「?」
「俺の婚約者が、今日も最高」
「照れますわぁ」
今日は折角の晴天なのに、隣国から輸入したという自動車というものに乗せられて、しぶしぶ登校させられている。乗り心地は馬車よりはまぁ良いので、気分はそこまで悪くなかった。
前回の人生で学園も花嫁修行も全て終えてしまっているので、今の私に必要な学びは何もないと言っても過言ではない。学園も退学してしまおうかと手続きを途中まで進めていたのだが、伯爵家に止められてしまった。花嫁修行というの名の公爵家から派遣されていた家庭教師からも、教えられることは何もないと太鼓判を押された。(前は何百回と泣かされたので、今回は逆に泣かせてやった)
学園に行っても彼の浮気相手たちに地味から派手まで多種多様な嫌がらせを受けるので、面倒で不登校を貫いていた。その旨はきちんと公爵家にも説明している。あちらのご夫妻は前と変わりなく私に優しかったので、のびのびと過ごしてよろしいとお墨付きまでもらっていたのだ。それなのに、その原因を作った当の本人がなぜか私を執拗に学園へ誘ってくるのだ。理解に苦しむ。
「私に浮気相手を作れ、ということですね」
「なんでそうなるの」
「楽しみですわぁ、色んな人と恋ができるなんて!」
「俺のことやっぱり嫌いになった?」
「世界で一番好きですよ?」
ちょうど学園に着いたようで、車のエンジンと振動が止まった。
唖然としている婚約者を無視して、私はご機嫌で車から降り立つ。降り注ぐ日の光から守るように、執事の一人が私に日傘を差し出してくれた。年上も素敵だが、前の夫が年上だったせいで少しだけ抵抗がある。同い年か年下を狙っていこう、そう決めて日傘をくるくる回しながら歩きはじめた。
後ろからのろのろと気落ちした婚約者が付いてきていたが、数分もしないうちに浮気相手たちに群がられて姿が見えなくなった。公爵家の後継は問題無さそうだ、ただ後継者が多すぎて無駄な争いを呼びそうではある。
「あら、生きてらしたの?てっきり死んだものかと喜んでおりましたのに」
「ご機嫌よう、エリート男爵令嬢」
学園に来ると決まって彼女が一番に嫌味を言いに来る。私の人生における仕様だと思ってやり過ごしているが、ただ彼女は前世で私の婚約者を寝取っていったあの男爵令嬢なので、こうして話ができることに無駄に高揚してしまう。
「歩くゴシップですわぁ」
「何ですって!?」
他人事だと思うと楽しくて、口も軽くなった。日傘も差さずにその晴天の中立つなんて、やはり彼女は生粋のお嬢様というわけではなさそうだ。今回は覚えている限りで浮気相手たちのリストを作って、一人一人調査してある。婚約者がいる者そうではない者、同じ尻軽でも複数と交際している者と様々な乱れた人間関係に調査書を読んでいて本当に興奮した。信じられない世界がそこに広がっていたのだがら、仕方がない。
いかに私が世間知らずだったか痛感したのだ。
特に目の前の彼女は、婚約者のような見た目の者に目が無いらしく、緑がかった黒髪に翡翠の瞳の者を何人も誘惑しているようだった。その手練手管を教えて欲しいくらいだ。
いつもキャンキャン目の前で躾のなっていない子犬のように吠え続けているのだが、今日は少し日差しが強いせいで汗ばんできてしまっていた。可哀想になって、そっと近づいて日傘の中に入れてあげた。
「な、何すんのよ!?馴れ馴れしい」
「いえ、暑そうでしたし…それに」
目の前の彼女の乱れた長い前髪にそっと手を伸ばし、耳にかけてあげる。そのまま柔い耳たぶを弄びながら、彼女の容姿を観察することにした。私とは違ってクセのない真っ直ぐな亜麻色の猫っ毛は、とても指通りが良さそうだ。少し釣り上がった大きな猫目も、まつ毛が長く愛らしかった。ぷっくりとさくらんぼのように小さく艶めいている口元は、汚い言葉遣いさえなければ吸い寄せられてしまいそう。小悪魔のような女の子とは、こういう子を指すのだろうか?ふわっと彼女の首筋から香った香水が珍しい物だったので、不躾だが顔を寄せて嗅いでみた。この桃の香りがベースでスパイシーに香るのは、確か今一番人気のある香水師の今季の新作だったはず。トレンドも押さえているとは、さすがだ。
「私に教えてくださいません?」
「な、何を…」
うっすら隠しきれなかったキスマークを見つけて、耳タブを弄んでいた指先を這わすように動かす。私の首筋にも残してくれたらいいのに…、小さくため息が出た。その吐息と一緒に、囁くように懇願する。
「楽しいこと」
そう微笑むと、とうとう顔を真っ赤にして絶句してしまった。
「俺の浮気相手を浮気相手に選ぶつもりだったの?」
「いえね、自分で言ってて恥ずかしくないんですか?」
「ごめんね」
「浮気性なところも含めて愛してますよ」
小悪魔な彼女から引き剥がされて、私の日傘には婚約者が収まり、私は彼の腕の中に収まっていた。
せっかくあと一押しで上手くいきそうだったのに、本当に空気の読めない人だ。
彼の腕から離れたくて身を捩れば、ようやく周りに気がついた。誰も彼もがこちらを向いて赤面して、足を止めていた。小悪魔な彼女は、こんなにも魅了するのかと感心した。
もう一度エリート男爵令嬢に視線を戻して、トレンドを追う彼女の制服の着こなしを観察する。なるほど、ネクタイは大きく緩めに結んで、胸元までボタンは開けておくのか。前までは下品な着こなしだと思っていたが、頭が固かったのかもしれない。
シュルッと胸元を緩めて、きっちり閉めてあったボタンを上から一つだけ外した。それに戸惑った婚約者が、優しく私の手を握り込んで止めてきたので、その綺麗な顔を見上げながら微笑む。
「あら?どうやら、これがトレンドのようですよ」
「違うよ、色々だらしないだけだよ」
「ハロルド様!?」
彼女にそのまま視線を流せば、なぜか慌てたように胸元を隠していた。
違ったの?
「もう…勘弁してくれ」
「キスマークもつけてくれないと、流行に乗り遅れてしまうわ」
そう嫌味を言った瞬間、首元に噛みつかれていた。
「隠れないじゃない、そんなとこ!」
「君は、しばらく学園に来ちゃだめだ」
「連れてきといて、それ言います?」
どちらにせよ、風紀を乱したということで一週間の自宅謹慎になりました。
もちろん婚約者も一緒に。
※※※
嵐の真っ只中。
君が飛び込んだという橋の上までやってきた。
轟轟とした全てを呑み込まんとする河の流れに、知らず口角が上がる。
君の体は、一体どこまで流れてしまったのだろうか?早く探しに行かなくては。
『俺に恋した君がいない世界なんて、ありえない』
さぁ、探しに行こう。
終
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