②『大事な親友』
────世界は美しい、と思った。初めて誰かのために命を懸けてみてアタシはそう感じた。魔族だからじゃない。人間じゃなかったからでもない。アタシが何も知らなかったからだ。
知ることは素晴らしい! だって生きているから!
『ドラクレアの名を汚すなよ』
呪詛のように身を灼き続けた言葉が今では嘘のよう。下らない、下らない、下らない! アタシの生き方にそんな重い荷物は必要ない!
「ん。変な事思い出しちゃった」
遠い夢。かつてはあった現実。ルヴィは目を擦ってベッドから起きた。
「良い朝ねぇ。なんかもう見慣れちゃったけど」
アドワーズ皇国の宮殿を拠点として生活するルヴィは、百年の間に力を取り戻す事が出来た。ゴグマに『もう糸は要らなさそうですね』と外されたときの、何かから解放されたような清々しい気持ちが少し懐かしくなる。
「おうおう、起きたかよ。メシはどうする?」
「あ、おはよ。今日は気分が良いから外で済ませるわ」
「そうかい。じゃあ急がなくても良さそうじゃのう」
顔を出しに来たヤオヒメの誘いは断って、お出かけ日和に気分良く着替える。彼女の瞳に皇都はいつでも眩しく映った。
たかが百年。されど百年。人間ばかりだった国は、いつの間にか魔族たちも大勢が出歩くようになった。法律も整備され、双方が問題なく暮らしていけるよう考え抜かれた世界の新たな姿は温かい。
「よう、ドラクレア! どこへ行くんだ?」
大きな声で手を振りながらトラリが明るく挨拶をする。
「おはよ! ちょっと朝食でも食べにカフェに行こうかなって」
「いいねえ。オレもまだメシ食ってなくてさ」
「じゃあ一緒に行こうよ。友達と一緒ならアタシも楽しいから」
相変わらず左目だけは視えないまま。魔核は復元されたが、ゴグマの診断ではクレールの魔力を使って戦った後遺症的なもので、最初こそ不便だったが今ではすっかり慣れたものだった。
ただ、片目が白く濁ってしまっているため、見栄えが悪いと我侭を言ったら薔薇をあしらった黒い眼帯をヤオヒメから贈られ、以来ずっと着けている。
「人間のメシってうめーよな。シャクラがオレたちの群れに来たときは人間なんぞ大した生き物でもねーだろとか思ってたけどよ」
「文明としてはアタシたち以上のモノがあるわよね」
馴染みのカフェのテラス席で寛ぎながら、メニューを眺めてたわいない話を交わす。トラリは文化的な生活には馴染んでいて、外見的にも人間と変わらないのでルヴィはなんだか不思議な気持ちになった。
「……なんか、こういう時間って良いわよねえ」
「そういうもんか? メシを食うだけなのに?」
「だからよ。争い事もなく平和で……」
一生、このぬるま湯に浸かっていたい。そんな風に思った。
「まあオレも嫌いじゃねえよ。メシは美味いし風呂なんてサイコーだ。浴場で素っ裸で走り回ったらメチャクチャ怒られちまったけど」
「そりゃ常識がなってないから当然でしょ」
二人でけらけら笑いながら、サーモンサンドとコーヒーを頼んで待った。内陸であるアドワーズ皇国では魚など手に入らないのが当たり前だったが、魔族たちがやってきてからは『長時間冷やせるなら問題ない』、『運搬に時間を掛けなければいい』など様々な案があがり、現在では仕入れも容易になった。
おかげで以前よりもずっと豊富な食材で様々な料理が食べられる。皇都を毎日歩き回っても退屈しない。ルヴィはそんな時間が大好きだ。
「ねえねえ、今度食べ歩きとかしない? アタシ、結構リサーチしててさ。美味しい店とかいっぱい見つけてるのよ」
「ナイスアイデア。オレ、いつも闘技場の食堂で済ませちまうからなぁ」
楽しみだと目を輝かせたトラリが、途端に表情を変えた。
「あ……。でも無理だ。実は仕事が入ったんだよなァ」
「仕事ォ? 闘技場の試合じゃなくて、って事?」
「おう。エスタから頼まれたんだよ。魔界に行ってくれって」
その話にはルヴィも覚えがある。魔界で反乱分子が動いているというのだ。それも主導はマンセマット・フェルニルだと報せも入っている。彼は自身が万が一にも負けたときの保険を掛けて、最後の代替品を隠していたのだ。
以降はゴーレムを再稼働させる事も叶わず逃げ延びながら機会を窺って息を潜めていたのだろうとエスタたちは大した障害でもなくなった彼に対して脅威として見る事をやめていた。だが、それが人間や人間に与する魔族に反発的な者を集めて襲撃の計画を立てていたと分かり、討伐隊が編成される事になった。
そこで白羽の矢が立ったのがトラリだ。彼女を隊長に据えて魔界の警備にも当たってもらう事が決まり、しばらくは人間界に戻れないだろうと話す。
「残念だわ。あんたとなら一日遊んでても疲れなさそうなのに」
「んな事いっても仕方ねえよ。俺も最近退屈だったから受けちまったし」
闘技場では敵なし。少しずつ暇を持て余すようになってきていたので、せっかくなら魔界でも腕試しがしてみたい快諾したのだ。
「なーんだ、じゃあ行けないじゃん。つまんないの」
「そんならヤオヒメでも誘えばいいんじゃねえの?」
「えー。……それはなんていうか、気恥ずかしくてさ」
たくさんの迷惑を掛けてから命からがら助かって、力を合わせて今までやってきたが、何か計画する度に必要以上に誘う事ができなくなっていた。
声を掛けたら迷惑なんじゃないのか。普段から忙しそうなのに、自分が声を掛けていいものかどうか。呼べばきっと応えてくれるとは分かっていても、かつて自分のせいで彼女を悲しませてしまった事が、どうしても二の足を踏ませた。
「アタシ、ヤオヒメの事泣かせちゃった事あってさ。それ以来、なんだか申し訳ないのよね。あんな風に泣かせてしまったらどうしようとか、気を遣わせてんじゃないのかなって、色々考えたら誘うのが申し訳なくって」
ぐずぐずと考えるのは良くない。しかし無理だ。一度でも根を張ってしまった感情は、想像よりずっと厄介に道を塞いで立ち止まらせてしまう。
「勿体ねえなあ」
トラリが届いたコーヒーを飲んで言った。
「それじゃあ、どっちも気を遣って余計に話し辛くなるじゃねえか。せっかく他にいない友達なのに。大事なもん失くす前にきちんと腹割って話しとけよ?」
椅子にもたれながら、露骨に残念がって彼女は続けた。
「あ~あ。オレって母親に会わねえうちに死んじまったからさあ。本当のところどう思ってるのかなんて聞けやしなくて、お前の事が羨ましいよ。なのに肝心のお前はそんな幸運にも気付いてねえ。本当に可哀想で仕方ねえよなァ」
がたっ、と椅子が倒れる。立ち上がったルヴィが机を叩いた。
「……うるさいなあ、もう。アタシだって色々考えて今があるんだっつーの! 気分悪くなっちゃったからもう帰る! お金は出すから勝手に食べててよね!」
広い道へ出て大きな翼を広げたら、さっさと彼女は宮殿へ飛んで帰っていく。
見送ってトラリはくすっと笑った。
「んだよ、本当に愉快な奴だなァ。ちょっと焚きつけたらすぐやる気になっちまう。ったく手間の掛かる姉御だぜ。────あ、パンケーキ追加で」