第二部 終幕『征服者になるのも』
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百年の時が過ぎるのはあっという間だ。皇都を彩る景色は何度も入れ替わり、今は紅葉の映える季節となった。
昔と比べれば活気は落ち着いたもので、暮らす人々の移り変わりは、時に悲しみをもたらし、時に喜びに満ち溢れている。そんな中、まったく代わり映えしないのが宮殿で暮らす者たちの姿であった。
「私たちだけ時間が止まっているような気がして不思議だわ」
窓の外を見る長い黒髪が特徴的な女性が、薄青の瞳に町の景色を映す。
「契約者……じゃなかった」
軽く咳払いしてまだ気恥ずかしそうに女性の名をフロレントと呼ぶ。
「そなたが歳を取らなくなった原因だが、ゴグマがようやく調査を済ませてくれた。これまで随分と長くかかってしまってすまない」
三十歳を迎えたある夏の日。フロレントの髪は徐々に黒く染まり始めた。原因は誰にも分からず、一万年以上を生きるゴグマでさえ訳が分からないといった様子で人間界と魔界を行ったり来たりして、多くの魔族に話を聞いて調査をしていたが、そのような事例がこれまでなかったので──元より人間との交流を始めたのが二十年にも満たない短さだったから──判明するまでに時間がかかった。
しかも、おまけの如く歳まで取らなくなり、多くの国民を集めて事情の説明なども行って理解は得られたが、気付けば百年の時が経っていた。
「そなたが私たちの魔力に触れたのが大きな理由かもしれないそうだ。髪が黒く染まったのも、長く傍にいたのが影響しているのだろう、と」
エスタ自身も些か腑に落ちない話だったが、調査を任せたゴグマによれば『具体的な確証はないんですが、フロレントが我々の魔力をも取り込んでいる可能性があります。そのせいで魔族に近い肉体に変化しているのかと思いますね。なにしろ初めての事例なので、ワタクシにはなんとも!』といった具合だったので、他に理由は考えられないのだろうと結論付けるしかない。
「魔族は基本的には肉体的な歳を殆ど取らぬ。ヤオヒメやルヴィのように不老不死の奴でもない限りは千年くらいで少し老けるのが普通だ。そなたは多分、クレールと同じで人間と魔族どちらの魔力も制御できる上に、あの者よりもずっと周囲から取り込む力が強いようだ。私たちが想像している以上に。ただ若い肉体だから、その影響が無意識化の内に現れたと考えるといい」
外見的な変化は髪の色と歳を取らない体だけ。他に異常はなく健康そのものだ。目に見えない変化は、たったひとつ。────異常なまでの魔力増幅。
十年以上に及ぶ修練の積み重ねと、指南役である最強の魔族たちの手によって、フロレント・アドワーズが大魔導師クレールに肩を並べるまでに魔力の扱いを完璧にしてみせたのが二十九歳の春。ちょうど変化が始まる直前で、大魔導師の器として完成された頃。それから魔力の増幅が大きくなっていき、それについては当初からエスタたちも『本当に大丈夫なのか?』と不安にすらなった。
「そなたも実に素晴らしい魔導師になった。人間も魔族も、そなたの今の状態には肯定的ではあるが……。念のためゴグマにも治療法を探してもらっている。混ざり合うまではともかく分離させるのは難しいそうだ」
「わかったわ。それで、他にも報告があるでしょう?」
あまり気にしていないのか、とエスタは意外そうにしながらも、手に持った報告書の束をめくった。
「シャクラの娘についても報告が。魔界で反乱分子の軍勢を掃討したそうだ。現在は境界付近で警戒に当たってくれている」
魔族の中には『人間と交流など誇りを捨てた行為』と嘲ったり、反対勢力として徒党を組み、裏切者共々、人間界を滅ぼそうとする者がいる。たった百年ほどで理解を得られるとは思っていないので、まだこれから変化を促していかなければならない時に暴動を起こされては困る。そのため武力制圧が認められ、フロレントはその最もたる勢力としてシャクラの娘であるトラリを送った。
マンセマットの計画に加担したメイデスたちによるユピトラの形成していた群れは崩壊したが、彼女は我が子を既に別の信頼できる群れに預けていた事もあって──シャクラとの子がいると分かれば、自身が群れで長としての信頼に欠ける可能性もあったし、なによりシャクラほどの強者の子となれば先んじて始末しようとする者も出て来るから──生き延びていたトラリは、既に父親に比肩する。
闘技場では戦える相手がおらず、現在は魔界で討伐隊を率いるほどの猛者で、フロレントとも良好な関係を築いている。
「ありがたい事ね。……それにしても、当時は驚いたわ。まさかシャクラに娘がいるなんて。一番そういうのに興味なさそうだったんだけれど」
「実は私もそう思って、顔を合わせる前にこっそり問い詰めたんだ。なのに、あの男と来たら『まったく記憶にないが』などとぬかしたのだ」
彼は本当に興味がなく、ユピトラとそういった雰囲気になった覚えもなかった。とにかく戦う事ばかりで色事とはとんと縁がない。だからエスタに問い詰められても首を傾げるほどだったが、最終的に記憶を辿ってみて心当たりがあった。
『ああ、そういえばクレールと戦う前夜に執拗に迫られたから一度だけ。思えばあれは何か嫌な予感でもしていたのかもな。俺が敗北する事はもとより、己自身の死を悟っていたのやも。強者の血を残したがるのが普通だ、俺は違ったが』
実際にユピトラがどれほど慕っていたかなども気にしていなかったのか、思い出すと少しだけメイデスに対して『あのゴミクズのせいで才能が潰れた』と恨み節は溢したものの、そこに情愛があったとは思ってもいない。
ただ、そう言いながらもトラリに対する眼差しは優しいものだった。
「でもまさか、二人が仲良くなるなんてね」
「娘の性格が父親に近いからだろうな」
仲間に引き入れるとき、もし恨みでも持っていたら、とややこしい事にならないよう念のため先に顔を合わせた。トラリもさぞや母親の事も含めて腹立たしい事だろうと予想していたが────。
『あン? つまりオレの親父?────すっげえ強いんだろ、分かるよ。ひと目見ただけで。なあなあ、オレは最強のオーガになりてえんだ、鍛えてくれよ!』
何も気に留める事がないどころか師事さえ頼むほどだった。とにかく強さを求め、全く同じ能力を使う父親に憧れた。おかげで敵に回す事もなくなり、人間に近い見た目から忌避されるどころか慕われ、彼女自身も守ろうとするようになった。仲間を裏切らないというオーガの本来ある性質に救われた瞬間とも言えた。
「ああいうのを見ると、親子って少し羨ましくなるわね」
「……む。それは、その」
「別に、生きていたらなんて考えてないわ」
「そ、そうか。すまん、余計な事を言わせてしまった」
「ふふっ。そうじゃなくて、子供が欲しいなって」
自分の子供がいれば両親のように、シャクラのように、大切に我が子を想えただろう。だが願っても手に入らない未来だ。ないものねだりをするつもりはなく、エスタが困り顔をして動揺するのをわざと面白がった。
「冗談よ。私にはあなたたちがいるもの、他に必要なものなんてないわ」
「う……そう言われると照れてしまうなぁ」
エスタは無邪気だ。初めて会ったときには硬派な騎士を感じさせる立ち振る舞いに思えたが、知れば知るほど彼女は自由気侭で、人間の事を何も知らない子供も同然の愛らしさを持っていた。
今は愛おしさすら覚える。誰よりも自分を大切にしてくれる人。そう心から信じられる騎士様。我が子などでなくとも十分、愛情を注げる相手になった。
「だが、やはりそなたも子供は欲しいものだろう?……気は進まぬが、もし番が必要ならばヤオヒメにも相談してみても……」
「ふっ……アッハッハ! 要らないって、あなたが傍にいてくれればね」
あまりに可笑しくて腹を抱えて大声で笑ってしまった。
「あの始まりの日……。全てが変わって行って、私は色んなものを手に入れて来たわ。たくさん失って、たくさん傷ついて……。その度にあなたが私の傍にいてくれた。だから他に欲しいなんて言わない」
窓の外に見える景色は不思議だ。たった百年、されど百年。人々の活気は瞬時に掻き消され、その後にあるべき姿を少しずつ取り戻していった。そして今や、新たなる世界の始まりとも言える姿に変わっている。
交わるはずのなかった、いや、交わるべきだった二つの世界が、ようやく繋がったのだ。たった一人では成し得なかった事が、たった一人では見届けられなかった世界が、目の前にある。その偉業を常に傍で救ってくれた英雄たちがいれば、ちょっとした羨ましさや憧れはあっても手を伸ばしたりはしない。
「ゴグマに調査の中断を伝えて。治療法は必要ない」
「……えっ。だがしかし、それはそなたが困るのでは……?」
変異するという事は彼女が人間という枠組みから逸れて魔族になる可能性も秘めている。何分とわらかない事だらけで、そうなってしまったらアドワーズ皇国を代表する者として人々からの理解をこれからも得られるか分からない。
だがフロレントの決意はとても固いものだった。
「私はこの国の人々が大切よ。でもそれ以上に、この景色をくれたあなたたちの方が大切なの。もし理解が得られなければそのときは……また手に入れればいいわ。私たちのやり方で。それに黒い髪も悪くないでしょ、あなたとお揃いで」
スッと大きく手で梳いて、ニヤッと笑う。
「これも影響のひとつなのかしらね?────今は、あなたたちと征服者になるのも悪くないかなって、そんな事を考えたりもするのよ」
いつぞや、遠い昔に見た覚えのある善悪の入り混じった貌が微笑む。かつては無意識に浮かべた表情も、今は彼女自身が自らの考えを示すものとなった。
いつかはこの手で殺すやもと描いた未来はなく、想像よりもずっと悪辣で神秘的で、なにより素晴らしいとエスタは胸中に称えながら────。
「実に良い。私好みの表情だよ、我が王」




