第30話「千年じゃ足りねえ」
凄まれてもハーティはまったく臆さない。目の前にいる九尾を見ても、自分の方が強いと思っている。
彼は生まれて二百年ほどで魔物から魔族へ変化した才能のある若き存在だ。まだ芽が育つ段階にも関わらず実力者としてヤオヒメたちの前に立つだけはあり、彼女も勿体ないとは思いながら、しかし敵に回ったのならば────。
「グハハハッ! 狐風情が偉そうに語る!」
鋭い爪。大きな拳。太い脚部。頑丈そうなあご。毛深さにも勝る頑強な体躯のシルエット。どれをとっても恐ろしい姿だが、ヤオヒメには仔犬に見えた。
「御託は聞きとうないわいのう。さっさと済ませろ」
「ならば俺の強さをお前に見せてやろう!」
一歩が重い。地面を大きく抉っての突進。重量を乗せた体当たりを、ヤオヒメは微動だにせず、周囲の砂を操って創り出した壁で防ぐ。
「こんなもので俺を止めるか!」
「こんなものォ? だったら一発でぶち抜かんかい」
ハーティの戦いは体術が中心だ。魔力を乗せた拳や蹴りが高い威力で乱打される。鋼鉄だろうと穴を開けられる。だがヤオヒメの砂の壁に幾度と阻まれ、衝撃だけが周囲に伝わるばかりで、どこまでも広がる分厚い壁を叩いているような錯覚さえ起こし始めた。
「ぬぐ……! なぜ通らん……!?」
「足りねえよ。今のてめえじゃ千年掛けても俺様には届かねえ」
組んだままの腕。スッと小さく片足をあげ、地面を叩く。
「……砂に呑まれて死ね、小僧」
砂がハーティの四肢を拘束する。膂力に自信のある彼でも振り払えず、動揺が隠せない。なんだこれはと騒ぎ立てる間に、砂がじりじりと彼に纏わりつく。
「渇き乾いて死出の道。声なき無窮の塵と化せ。────《砂柱螺旋》」
ゆっくり、ゆっくり砂に包み込まれていく。いくら吠えようとしても、埋ってしまえば動く事さえできない。ヤオヒメが鈍い動作で握りつぶす仕草をすると包み込んだ砂が捩じれのある大きな柱を作った。
「ハッ。鳥頭、てめえの子飼いだった二匹も大概弱く見えておったが、コイツも半端ものよのう。今の魔界ってなあ、こんな骨のない奴しかおらんのかえ」
「私には十分な使い道のある者だった。他に適任もいない」
何の感情も持たない言葉に意味はない。ヤオヒメは話すだけ無駄だと分かり、砂の柱を崩れさせて指で招きながら「次だ、次。さっさとせい」と催促する。どのみち殺すか殺されるかの道しか互いに残っていないのだから、深く考えるよりもまずは成すべき事を成そうとした。
「ならば儂が出ようか」
見るからに老人。枯れ木のような骨と皮ばかりの細い身体は背中が歪に曲がっている。両手に鎖の千切れた枷を嵌めたぼろを纏う姿は罪人のような見た目をして、周囲に顔を顰めたくなるような死臭を放つ。
「久しいな、ヤオヒメ。儂の事覚えとるか?」
「話掛けんな。てめえとは一番喋りたくねえよ」
「ホッホ! 手厳しいわい、そこが愛せる!」
枷から垂れた鎖をヤオヒメに向けて鞭のように振った。砂の壁が立ちはだかったが、鎖はいとも容易く打ち砕いて彼女を狙う。
「相変わらず下らん技じゃのう。俺様の砂の壁を攻略するのは偉いが」
鎖を手で掴む。触れればあらゆるものを溶かす魔力の酸が纏わりついているが、魔力抵抗の高いヤオヒメを溶かすには至らない。その代わり手が強く焼ける音がして爛れたが、彼女はまったく顔色を変えなかった。
「ホッホ~! やはり愛いのお!」
放された鎖を手繰り寄せ、べったりついたヤオヒメの皮膚を舐め取る。フロレントに見せてはいけない、とエスタとルヴィが遮った。
「きめえなあ……。トレット、てめえまだその癖治ってねえのか」
「治す気もないわい。好きなモンを好きで何が悪い?」
「今のを見て無きゃ良い事言ってるように聞こえるのによォ……」
呆れてため息が出る。トレットはヤオヒメが知る限りではそれなりに長生きしているが、強いと言うほど突出した魔力もない。ただ強力な酸を操って、どんな頑強な相手でも──よほど魔力に差のある相手でなければ──立ちどころに溶かすため、厄介な敵ではあった。
「しかしよぉ。てめえみてえな奴がなんで鳥頭野郎についたんだか」
「……分かるじゃろお、ヤオヒメ。儂は苦痛に歪む顔が好きなんじゃ」
長い舌がぬるりと鎖を舐める。老人の下卑た笑いに顔を顰めた。
「これまでは高い魔力がなければ境界すら開けず、ぬしらが羨ましかったものよ。じゃがテュポーンが目覚め、境界がなくなれば、儂の好みの女子の手足をゆっくり溶かして嘗め回して……あァ、愉しみで仕方がない!」
「そうかよ。一生夢だけ見てろ、聞きたくもないわいのう」
不気味というよりは醜悪。魔界に居座る老体の腐った姿に、ヤオヒメはキセルから放つ煙で周囲の臭いを掻き消す。
「丁度良い。てめえは以前から気に喰わなかったが面倒で相手にしておらなんだのよ。じゃが今日は────始末するに都合の良い大義名分が出来た」
「ほお。千年経ってもなお美しい。やはり儂の愛した女よのお」
鎖を地面に叩きつける。飛び散った酸をヤオヒメの砂が防ぐ。
「ここからが本領発揮じゃあ、ヤオヒメ! 儂のモノとなれい!」