第一部 終幕「新しい家族」
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ゾロモド帝国崩壊から二日が経った。
アドワーズ皇国には、フロレントを除いて人間はいない。代わりに何人かの魔族が滞在している。見るものもなく荒廃してしまった血と灰の臭いがまだ取れていない場所で、僅かに暖かで心地良い香りが宮殿を漂う。
「ヤオヒメ、何をしているの?」
「オウ、おはよう。よく眠っておったのう」
厨房で油がバチバチと弾ける音がする。油のたっぷり注がれた鍋で旅の途中に食べた料理をまた作ってくれているのかと覗き込む。
ぐいっと顔を押されて離されてしまう。
「馬鹿者、火傷したいのか。俺様とて慣れてはおるが、爆ぜる事もあるんじゃ。顔に飛びでもしたら、てめえの綺麗な顔に痕が残っちまうじゃろ」
指をくいっと動かすだけで、遠くにあった椅子がススッと動いて傍に寄って来る。フロレントを無理やり座らせて「少し離れてみとけ」と指差す。
熱した油がいかに危険であるか、ずっと昔に何度も見てきて知っているヤオヒメからすると、興味津々に近寄って来る子供は見ていてヒヤヒヤさせられるものがあった。肉体的には成熟間近でも、まるで赤子同然だ。
「ねえ、こっちの釜は何をしてるの?」
「米を炊いておる。てめえには馴染みないかもしれんがのう」
本当は旅の途中でも一緒に出したかったが、そもそも荷物に無かった事もあって出来上がるのに時間も掛かるため諦めるしかなかったものを、今はゆっくり時間が取れるというのもあって早朝から一人で準備を進めていた。
「米っつうのは炊きたての柔らけぇのが俺様は一番好きでのう。よく蒸らした米は揚げ物によく合うんじゃな、これが。そこに酒もありゃあ言う事がねえ」
釜の蓋を持ち上げて覗こうとするフロレントの手をパシッと叩く。
「勝手に触るんじゃあないわいのう。赤子泣いても蓋取るなっつうてな、蒸らす行程ってのは結構重要なんじゃ。良い匂いでも我慢せえ」
「……うう、ごめんなさい」
思ったよりも強く叩かれて手がヒリヒリするのをさすった。
「ま、そのうちじゃ。食堂はここから近いんじゃろう、後で運ぶのを手伝っておくれ。その代わりてめえのカツを半枚ほど多めにやろう」
たっぷりのソースをかけて食べたときの事を思い出してごくっと喉が鳴った。彼女が何度も頻りに頷いて目を輝かせたので、ヤオヒメはくすっと笑う。
「まだまだ若えのう、食欲が旺盛で何より。これから国を創ろうって奴がひ弱だと困るものな。しっかり栄養取って体力つける事じゃのう」
「ふふっ、あなたも残ってくれて嬉しいわ」
尻尾が二本、ひょこっと顔を出す。
「うるせえのう……。俺様も興味が湧いただけだ、てめえのためなんかじゃねえから勘違いするな。それよりほれ、もう支度出来たから手伝え」
結局、ヤオヒメは魔界に帰らなかった。各地へ帝国陥落の報せを伝えに行った後、彼女が選んだのは人間の未来を見届ける事だった。
過去に何度も重ねて来た嫌な記憶が蘇ったが、今はフロレントのためになる事を、と擦り寄ってきた貴族に対して『命が惜しくないらしい』と軽い脅しをするなど当人の与り知らぬところで『アドワーズ皇女に逆らってはならない』と印象が付き始めている。
「そういえばシャクラは相変わらずなの?」
「ああ、ずっと外で気配を探しておる」
魔界に帰らなかったのはヤオヒメだけでなくシャクラもだ。
ただし彼は理由がやや異なっていた。
「ユピトラを失ったのが随分ときとるようじゃのう。虱潰しにあっちこっち消し飛ばさぬだけ、てめえに気を遣ってるみたいじゃが」
シャクラはあまり他の誰かに興味を示す方ではないが、自分が育てようと選んだ者を勝手に横取りされたのに腹を立てているのか、食事以外で宮殿に戻って来る事はない。必ず仕留めてやるとこぼしていたのをヤオヒメは聞いていた。
「気にするこたあねえよ。俺様も正直言って気になってるところだ。どこの誰かは知らねえが、このまま野放しにしておくのも良くねえじゃろう?」
料理を食堂に運んでテーブルに並べ、プレートを下げようと小脇に抱えてからヤオヒメはフロレントの頭をぽんぽんとやんわり叩く。
「ま、てめえは安心しておけ。契約をしておらぬとは言うても、エスタだけじゃなく俺様やシャクラ、ルヴィだって味方におるんじゃからのう」
たとえ多くの人間が彼女たちを敵だと指差しても、フロレントだけは絶対に裏切らない。ヤオヒメには分かるのだ、その心の純粋さと優しさが。だから直接口に出したりはしなかったが、必ず守り抜いてやると密かに誓っていた。
「貴公は素直ではないな」
匂いにつられて風呂からあがったエスタがジト目を向ける。
「だっ……! おったんなら言わんか……!」
「ふん。気付きもしないほどフロレントに見惚れていたか」
「やかましい口じゃな。殺すぞ、てめえ」
「ほお。貴公が私を殺すとは、随分大きく出たではないか」
赤面して怒られても、エスタは彼女がまったく怖くない。戦ったとしても必ず勝つ自信があったし、過去に何度かの小競り合いはあったが、その度にヤオヒメの方が退けられているのだから当然だ。
だが、今のヤオヒメにはエスタを黙らせる最終手段がある。
「……いいじゃろう、それならばせっかくメシの用意をしてやったが、てめえのだけは片付けておいてやる。腹が減ったらそのへんのカビた芋でも食ってろ」
「なあっ!? 貴公、卑怯だぞ……!」
「それなら俺様に謝るんじゃなあ! ええ、どうするエスタよォ?」
言い争いを横で見つめながらフロレントが我慢できずに腹を抱えて笑う。目に浮かんだ涙を指で拭い、久しぶりに心から可笑しいと思ったなあ、と。
「……はあ。仕方あるまい、私が言い過ぎた」
「ちっ。小娘に感謝するんじゃな、今回は大目にみてやる」
言い争ってばかりいてはせっかくの食事も冷めてしまう、とプレートを厨房へ片付けるのはやめて異空間に放り込み、そのまま食堂に引き返す。
三人を待たずして、シャクラがさっさと食べ始めていた。
「てめっ……! まずは『いただきます』が先じゃろうが!」
「あぁ、遅いから冷めてしまうと思ってね」
朝から騒がしい光景。フロレントは、家族と共に食事の時間を過ごした事を思い出す。物静かだが落ち着いた優しい言葉遣いの父。明るくていつも笑っていた母。食事が終わるまで待機しながら小さな声で話すメイドたち。
────ああ、もうあのときは帰ってこない。二度と笑う事もないかもしれない。そう思っていたのに、今はなんだか、とても温かくて心地良い。
「契約者よ、早く食べよう。料理が冷めてしまうぞ」
「ええ、そうね。じゃあ皆揃ったわね?────いただきます!」




