第31話「大結界」
ヤオヒメが天高く指を突き立てて、すうっ、と息を吸い込む。
「大結界。────《傀儡箱庭・絡繰遊郭》。死にたくなけりゃあ本気で来るがいい。俺様は手加減なんぞ出来ん性分なんでのう」
空が赤紫に染め上げられ、周囲一帯が見慣れない造りの瓦屋根をした建物やどこまでも続く石畳に彩られていく。あらゆる場所にヤオヒメとよく似た服を着たのっぺらな木彫りの人形たちが、鎌や槍といった武器を手にしている。
「シャクラ、あれは何!?」
「ヤオヒメが操る木偶人形だ」
襲い掛かってきた数体を素早く蹴り飛ばし、フロレントを抱えて下がった。足下を手のひらで叩き、雷の結界を極力小さく密度を高めて彼女の盾にする。
「この人形共も生半可な強さではない。奴の魔力で動く以上、俺も本気で戦わねばならん。お前一人の面倒だけを見ていられないのは分かるな?」
「……ええ。ここから動くなって事よね」
シャクラがニヤッとして、大きく頷く。
「理解が早くて良い。ではそこで眺めていろ、魔族同士の本気の殺し合いって奴を。おそらく、これがお前の最初に感じる死の気配だ」
木偶人形たちを蹴散らしながら、シャクラは一気にヤオヒメとの間合いを詰める。魔力を一時的に受けているとはいえフロレントも目で捉えきれない。だが、相手の目には「愚鈍な獣めが」と嘲るほどゆっくりに感じられた。
片足を上げ、振るわれた拳を受け止める。
「接近戦を仕掛けるのは実にてめえらしいが、その小さい魔力ではのう。俺様の下駄すら割れないんじゃあ、そのへんの雑魚と変わりゃしねえ」
圧倒的な力の差。クレールの結界すら時間を掛けて破壊できるだけの強さを持つヤオヒメに、今のシャクラでは届かない。打ち合った拳を地面に落とされ、そのまま頭に鋭い回し蹴りを喰らう。
建物をぶち抜いてフッ飛ばされ、止まる間もなく追撃を喰らう。腹を蹴られて宙高く跳ねさせ、ヤオヒメは彼の背中に飛び乗って思いきり下駄で突き落とす。その間、たった十数秒の出来事だった。
「チッ……! 俺がここまで一方的にやられるとはな……!」
ふらふらと立ち上がる。肉体を食い殺さんばかりの駆け巡る激痛に加え、額からは大量の血が流れた。空高くから降りて来たヤオヒメは彼の前に立ち、キセルをぴこぴこ揺らしてニヤニヤした。
「あのシャクラ・ヴァジュラが魔力が少ない程度で俺様の相手にもならねえと来るかい。退屈だのう、退屈だのう! だがそれゆえに面白い!」
からんころんと下駄を鳴らして顔をぐっと寄せ、目と鼻が触れあいそうな近さをして彼女は「もうやめちまえよ、人間如きのお守りなぞ」と囁く。
闘争本能の化身とも言えるシャクラが、たかが一匹の人間のために命を捨てようとしているのがつまらない。やっている事自体は面白いが、戦いを楽しむにはあまりに邪魔な存在だ。彼が返事をしないので、ふうっ、と呆れて一歩離れた。
「なんぞ、それほどの価値があるんかえ。俺様と戦うよりも、クレールの血筋風情のほうが大切だと。契約まで交わして、ここで死んでもええのか?」
「最初から価値がないと一蹴するお前よりは価値がある」
両手をぱんっと合わせてから、彼は大胆に地面へ拳を突き立てた。
「────《雷拳鉄槌》」
地面が爆発すると同時に視界を覆い尽くすほどの閃光の柱が天を衝く。赤紫の空が瞬時に青く染まった。シャクラを中心とした雷の衝撃波がヤオヒメも呑み込む。
────数秒して収まったとき、倒れていたのはシャクラだった。
「下らねえのう……。本気のてめえならいざ知らず、今の状態では俺様にはかすり傷すら与えられねえ。あんな人間さえいなけりゃあな」
くるりと背を向け、未だ張られたままの結界の中にいるフロレントを睨む。強烈な殺意が彼女へ近づき、雷を迸らせる結界の前でキセルを揺らす。
「さて、後はてめえだけだ。あの忌まわしいクレールの血筋のくせをして、腹黒いガキめ。シャクラを誑かすほどの女には見えやせんが」
「腹黒いってどういう意味?」
結界の周囲を傀儡人形が次々と取り囲んでいく。
「俺の耳は四つある。この獣の耳は遠くは砂粒が転がる音さえ聞き分けられる。そして、こっちが……」
するりと長い髪を指で持ち上げて、人間と同じ耳を見せた。
「てめえらとよく似ちゃいるが、こいつは心を聞き分ける。てめえが善人か悪人か、ある程度見極めるのに都合の良い耳だ。……そして、てめえは後者だろうな。今までの誰とも同じ欲望の声がじりじり聞こえとる。正直に言うてみろ、目的はなんだ?」
フロレントは深呼吸をする。目の前にいる怪物が恐ろしい。全身が震え、冷や汗はまだ止まらない。それでもしっかり自分を保った。
「────復讐。帝国に全てを奪われたから、彼らからも奪うつもりよ」
己が皇国の復興はまだ先の話だ。物事にある優先順位として帝国の崩壊を望んだ。彼らがのさばる世の中は、より良い未来に繋がらないから。
そのために復讐は大きな目的だった。ゾロモド帝国の崩壊と共に、奪われる悲しみや苦しみを彼らにも共有してもらわねばならない。今後、同じような事が起きないためにも痛みを通じて理解してもらうしかなかった。
「……ハッ、やはり蛮族に過ぎんようじゃ。崇高な目的のためには手段を選ばぬ精神は認めてやるが、クレールほどの馬鹿には程遠い。かの血筋も混ざれば薄汚く染まるものだのう。実に愚かで、生意気で、強欲じゃ」
キセルの先でコツンと結界を叩くと簡単に砕け散り、無防備に晒される。今にヤオヒメが号令を掛ければ、彼女の肉体は八つ裂きになるだろう最悪の状況。
「俺様は薄汚い人間如きのために力は貸さねえ。ここで死ね、小娘。てめえの物語もここまでじゃ。あの世で輪廻の時でも待つが良いわ」
傀儡人形たちが一斉に飛び掛かった。────瞬間だった。
「────《雷獣の咆哮》」
ヤオヒメが目を見開いて驚く。百はいた傀儡人形たちが雷撃によって炸裂する。焼け焦げた破片が彼女の頬を掠った。そのうえ視界からフロレントが消え失せたのだ。
「……おのれ、シャクラ。死んだふりとはこすい真似を」
「死んだふりだと? 馬鹿な事を言うな、休んでただけだよ」
フロレントを抱えて、高い屋根の上からヤオヒメを見下ろして笑う。まだまだ戦いはこれからだと言わんばかりのぎらついた鋭い眼光がぶつかった。
「どうだ、ヤオヒメ。ひとつ賭けでもしないか、その方が楽しいだろう」
「はん、下らん賭けだな。てめえの負けは決まっておるじゃろうが」
「分からんぞ? 案外、窮地に追い込まれた鼠に喉元を裂かれる事もある」
ぴくっ、と眉が動く。明らかな差を覆さんとする態度を見て、ヤオヒメは心底苛立たされた。
「良かろう、申してみよ。俺様の揺るがぬ勝利で飾ってやる」
「ああ、単純な話だ。今は明らかに差がありすぎて退屈だろうから」
シャクラは指を一本、ぴんと立てて言った。
「今の俺たちが、お前にかすり傷でも付けられればフロレントと契約してもらう。だが五分……五分経って傷ひとつ付けられなければコイツを俺が殺す」




