第30話「マガツノヤオヒメ」
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朝がやってきて出発の時刻が迫った。食事はもらったパンと新たに作ったスープで簡単に済ませ、目的地を地図で再確認しておく。
印のついた場所を指差してシャクラと顔を見合わせたら、頷いて返されたのでフロレントもきりっとした顔つきで笑みを浮かべていて、準備万端だ。
「じゃあ行ってくるわね」
「気を付けるのだぞ、契約者。我々もすぐ追いつく」
フロレントという制約がない以上、シャクラほどではなくとも、休む事なく全力で移動に注げるので、遅くなったとしても数時間程度に収まるだろうと言われて彼女もホッとひと安心だ。合流が出来るのなら不安はなかった。
「フロレント。出発の前に少しいいか」
シャクラが人差し指を齧って血を流す。
「気に喰わんだろうが俺の血を飲んでおけ、俺の魔力に一時的だが順応できる。いくら結界でお前を守ったところで脆い人間の体では耐え切れん。エスタのアパオーサとは話が違う」
「ええ、いいけれど……血を飲んで魔力が順応すると何が違うの?」
差し出された手から血を舐めるように飲む。口端から僅かに垂れたのをシャクラが指で拭った。
「俺の魔力をお前に注げるようになるんだ。そうすると僅かな時間だが魔族に近い身体能力を得る事ができる。そのうえで衝撃を抑えるための結界を張れば、俺の移動速度にも耐えられる。数秒の効果でも問題ない」
準備が出来たらひょいと抱える。シャクラの体がバチバチと音を立てて青白い光を帯びていくと、フロレントも不思議と力が漲った。
「なにこれ。凄いわね、元気になったみたい」
「ハハハ、まさしくその通りではある。────では行こう」
軽く、とんっ、と地面を蹴った瞬間の衝撃波は、エスタが結界を張っていなければ借り物の別荘と一帯を吹き飛ばしていただろう。たったひと蹴りで空を駆け抜け、あまりの勢いにフロレントは思わず目をぎゅっと閉じて、全身にぶつかる風の冷たさを耐えながら全身に力が入った。
「おい、もう着いたぞ。目を開けていい」
「……えっ。もう? 早すぎない?」
「当然だ。俺は他の連中よりも速度に特化してるからな」
ほんの僅かな時間で目的地に辿りつき、小さな島の砂浜に降ろされて驚きを隠せない。同時に景色の良さにも言葉が出て来なかった。
「ぼさっとするな、行くぞ。こっちに封印がある」
「あ……。ごめんなさい、とても綺麗な眺めだったから」
「……景色ねぇ。俺には良さがちっとも分からん」
「色鮮やかだな~とか思わない?」
「興味ない。人間はあんなものに心地良さでも覚えるのか」
「う~ん。なんて言ったら伝わりやすいかしら」
もう少し眺めていたい気分を我慢してシャクラの後を追いかける。彼に景色の魅力を例えるならどんな表現が良いのだろう、と首をひねった。
「別に無理をして俺に良さを伝える必要はない。俺には興味がないというだけだ、そんな話はエスタやルヴィにしてやるといい。あいつらは喜ぶ」
「……ごめんなさい。あなたと仲良くなれたらと思って」
落ち込むフロレントの頭を大きな手が優しく撫でた。
「気にするな。眺めの良さなんぞ理解はできないが、お前の努力くらいなら俺にも分かる。エスタほど寄り添うつもりはなくとも、突き放すつもりもない。お前はただ俺に命令を下せ。主従とはそういうものだ」
「それは嫌。命令というより、お願いだったらさせてもらうけれど」
彼女の仲間意識が理解できない。契約を交わしておきながら命令を下さないというのは主従と呼ぶには程遠いのではないか、と。
「変わった奴だな。では俺なりに期待に応えられるよう努力はしてやろう。ひとまず封印を解いて、エスタが来るまで時間でも稼ぐか」
「ねえ。それって二人を待ったりしなくてもいいの? みんなが揃ってからの方が安心できると思うし、ヤオヒメってすごく強いって聞いたわ」
シャクラが頭をぼりぼり掻いて、困った顔をした。
「それが出来れば苦労はない。マガツノヤオヒメはいくつか結界を持つんだが、そのひとつに数的不利を逆転させる『天邪鬼大結界』というものがある。ただでさえ常軌を逸した強さをしてる女だ、そんなものを使わせたらエスタやルヴィがいる方がなおさら厄介になる」
小さな島は数分も歩けば島の中央へやってくる。封印は生い茂った草に隠れていて、シャクラが雷撃で周囲を焼き払って見えやすくした。
「わあ、ありがとう。皆の封印とは少し違うみたい、ちょっとくすんでるわね。やっぱり千年もの間ずっと無人の島にあったからなのかしら」
「……いや、待て。様子がおかしい」
罅割れたような柄をした封印の魔法陣を見て違和感に気付いたシャクラがフロレントの腰に手を回して抱え、さっと飛び退く。
「き、ひひ。俺様に気付くとはやりおるのう!」
封印の中央に黒い渦が現れ、ゆっくり浮上してくる者の姿がある。フロレントとはまた色合いの違う白く長い、腰まである髪。吸い込まれそうな青藍の眼。凛とした鋭い顔立ちの美しい女は、頭に獣の耳があった。
胸元のはだけた着崩し方をした、独特な雰囲気の服装。真っ白に赤いリコリスの模様が入ったローブのような服を太い腰帯が脱げないようしっかり縛っている。
「……ヤオヒメ。お前、どうやってクレールの結界を破った?」
「小僧。俺様がてめえらとは違うのはよく理解しておるじゃろうが」
口に咥えたキセルをぴこぴこ動かして、きひひと歪に笑う。
「中々に頑丈ではあったがよ。ようやく破ったのも、つい数刻前の事。てめえらのニオイを嗅いで、こっちに来るんだろうと思うて待ってたのよ。……だが、気に喰わんのう。なんじゃ、人間の小娘なぞ連れてきやがって」
ぎらり。鋭い眼光がフロレントを射抜く。
冷や汗と震えが止まらなくなった。
「わ、私は……!」
「────囀るな、耳障りだ。俺様の邪魔をするでないわ」
声が重たく響く。たまらず膝を突いてしまう。
「なんじゃ、頼りない小娘だのう。シャクラよ、てめえの見る目も落ちぶれたもんだ。こんなゴミと契約したってのか、呆れて物も言えん」
呆気ないものだとフロレントを見下ろして、ぷかあと煙を吐く。
「どれ、小娘は俺様が殺してやろう。その方が自由になれるじゃろ」
「それは残念だ。俺とは意見が違うらしい」
「……おいおい、馬鹿になっちまったもんじゃのう」
まさかの言葉にヤオヒメが俯いて首を横に振り、シャクラを睨む。
「てめえも所詮は負け犬か。良かろう、せめて昔のよしみで俺様が直々に殺してやる。そこでジッとしてろ、痛みも感じぬうちに蕩かしてくれるわ」




