第29話「信じてる」
急に言われて、ぽかんと笑顔のまま固まった。帝国領内を横切るというのが頭にすんなり入っていかなかった。敵に狙われていると分かっているのに帝国領内に自ら足を踏み入れて横断するのか? と首を傾げてしまう。
「それってかなり危険じゃない。遠回りは駄目なの、船を借りて海から渡って行けば少しは安全だと思うんだけど……」
フロレントの提案をプッと噴き出して笑ったのがルヴィだ。
「そんなの時間が掛かるばっかりで無駄じゃない。飛んでくる矢の数は少ない方が良いに決まってるでしょ。のんびりするのは得策とは思えないわね」
「うっ……まあ、そうかもしれないけど」
今回でも想定していたよりずっと早い段階で襲撃を受けた。遠回りを選んで食料などを持って行く場合に船が沈められたら全てを失う事になる。陸路の方がまだマシなのかもしれないと考え直した。
「俺が運んでやろうか」
ひと足先にデザートの林檎を齧り、自信たっぷりな顔をする。
「運んでやるって、私の事を?」
「ああ。代わりにエスタやルヴィとは僅かな時間だけ別行動になるが」
気乗りしないエスタも彼の移動能力には頷いて返す。
「契約者よ。今回ばかりは急ぐのであればシャクラに頼るのが最も速いだろう。こいつは雷そのものと言ってもいい。ひと呼吸の内に目的地だ」
「それってみんなでは一緒に行けないの?」
問われてシャクラは首を横に振った。
「俺がお前を抱えて行くんだ。他の連中まで運べるほど腕の数もないし、俺から触れていないかぎり俺に触れる事も出来ないんでね。諦めてくれ」
「うーん……それなら仕方ないわね。エスタも言うくらいだから」
彼らが認めるだけの魔族であるマガツノヤオヒメの封印を解けば、ゾロモド帝国にいるであろう強大な敵への対抗手段になるのは間違いない。急ぐべきだという進言を素直に受け入れて今回はシャクラに頼る事にした。
「方針決まったみたいだし、アタシはちょっと散歩でもしてこようかな! 久しぶりの夜ってのを楽しみたいの。いいわよね、フロレント?」
「ええ。明日の朝までは自由よ、私も休みたいから」
大きなあくびが出た。まだまだ夜になったばかりで、朝までたっぷり時間もある。久しぶりにぐっすり眠れそうだと安心感に満たされる。
「ふむ、では夜の番は俺がやる。エスタ、お前も休んでおけ」
「うん? 何故だ、私は平気だが?」
「……悪いが、俺にはとてもそうは見えんがね」
フッと鼻で笑われるとエスタはバツ悪そうにした。
「分かったよ。貴公が珍しく言うのだから諦めよう」
「そうしてもらえると助かる。お前が一番の戦力だからな」
食事を終えたら片付けが始まった。ルヴィはさっさと気侭に外へ出て行き、皿を洗う気のないシャクラは別荘の屋根の上で常に周囲に気を張り巡らせていざというときの敵襲に備えた。
「契約者よ。どうして皿を洗う必要が……」
一日借り受けただけで、片付けなど後から来るであろうルバルスの遣いに任せておけば良いのではないかと面倒くさがるエスタを「めっ。これが大事なのよ」とフロレントはムッとした顔で一蹴する。
「こういうのは感謝の気持ちが大事なの。借りたものを丁寧に扱って元に近い状態で返す。これは基本的な人間社会の常識よ、あなたも学んで」
「むう……。そなたが言うのであれば仕方あるまい」
濡れた皿を丁寧にタオルで拭き、棚に片付けていく。人間とはなんと面倒な習慣を持つのだろうと思い、ため息をふうっと吐いた。
「ねえ、エスタ。さっきの話に出てた魔族の事だけど……」
「ヤオヒメの事が気になるのか」
「ええ。だって、すごく強いんでしょう?」
「……うむ。あれは魔力も含めて再生と回復能力が異常だ」
皿を片付ける手が止まり、エスタも珍しく曇った表情をする。
「おそらく封印を解いた瞬間から、我々にとっての脅威はゾロモド帝国に巣食う魔族以上の相手となろう。あれは理由は知らんが、とにかく人間を好かぬ者だ。シャクラのような問いかけもせねば同じ魔族とはいえルヴィとは格が違う。魔族の中で最も長く生き、多くの魔物を捕食してきた、まさしく最強の一角と呼べる相手だ」
魔王をしてそうまで言わせるマガツノヤオヒメと呼ばれる魔族が持つ異常なまでの再生能力は、たとえば灰になったとしても復活を果たす。ルヴィのような猛毒の血を以てしても瞬く間に解毒してみせ、消耗した魔力も瞬時に回復する手段を得ており、触れただけで灰に出来るエスタの膨大で強靭な魔力に対してのみ抵抗できず一時的に消滅させられるのがただひとつの弱点とも言えた。
だからこそ相性が悪いとしてまともに戦って来なかったが、今のエスタではむしろ圧倒される可能性がある。人間を嫌うヤオヒメがフロレントと契約してくれるとは思えず、ただでさえ到着が遅れるのに、と不安になった。
「そんなに強い魔族が味方になってくれたら最高ね」
「そなたは楽観的だなあ。まあ、可能性はなくもない」
「本当に? そのヤオヒメさんが契約してくれるって事?」
「あれは常識では語れん。おそらくは戦う事になるだろうが……」
信頼ではなかったが、ひとつだけヤオヒメを従わせる方法があるとしたら、全てはシャクラに掛かっている。彼ならばどんな状況でも間違った選択をするはずがない。特に相手が自分と同等以上の魔族であれば。
「ま、問題は無いだろう。シャクラを頼れ。あれが契約を交わすほどだ、おそらくは自らの命を捨ててでも守ってくれる。ただの戦闘狂ではない」
「ええ、もちろん。大事な仲間だもの、信じてるわ」
純真無垢な笑顔に、思わずため息が漏れる。どこまでも疑う事を知らない娘だと優しく頭をぽんぽん撫でて、困って赤くなる彼女を眺めた。
「気を付けていけよ。必ず私も駆け付けるから」
「うん。待ってるわ、あなたの事」




