第25話「感情の行方」
窓の外にすっかり打ち解けて楽しそうな姿にシャクラは手に持った林檎を齧って小さく笑った。あんな顔も出来るのか、とルヴィを見つめる。
「気になるか、自分の弟子が」
「弟子なんぞ取った覚えはない」
エスタに言われて、フンッと鼻を鳴らす。
「俺はあれが少しでも強くなった方が面白そうだと思っただけだ。……だがまあ、ああやって笑う姿を見ていると殺す意欲が失せてしまうな」
知り合ってからの数百年。ただの一度だってルヴィが心から楽しそうに笑っている姿を見た事はない。魔族にも関わらず誰よりも感情的で、最も人間に近い存在。吸血鬼と呼ばれる者たちの頂点にいながら、いつも孤独を漂わせていた娘の新たな側面に、ただの獣に成り果てるのを見届けようとしていたのが馬鹿らしくなった。あれこそが本来のルヴィ・ドラクレアなのだろう、と。
「……魔族とは何なのだろうな、シャクラよ。人間とは成り立ちも暮らす世界も違うというのに、私はあれが当たり前で自然な事に感じて仕方ない」
肉が焦げないように程よい火加減でじっくり焼きながら、そんな事をぼやくエスタにシャクラもじっと黙ったまま。
そもそも彼らは自分たちが長く生きているだけで、魔族とは何かと問われたときに個々で違う答えを持っている。あるいは支配者。あるいは闘争本能。あるいは獣。あるいは生命の頂点。あらゆる観点がありながら、辿り着くのは血に染まった自分たちの姿ばかり。
なぜ生まれたのか。なぜ食らい合わねばならないのか。そんな事は考えたりもしなかった。人間という存在に触れるまでは、一度たりとも。
「俺には分からん。分かるつもりもない。殺し合うのは性に合っている。そういう生き物だ。お前、よもや人間に憧れているのか?」
「……そうなのかもしれん。貴公はそれを恥だと思うか」
切実な問いかけだった。顔も合わせず言われて彼は驚きに目を剥いたが、その感情を否定はしなかった。エスタは生きた年数に比べて幼いのだ。まだ世界の残酷さも知らないような、聞きかじったり、僅かな経験という鎧で身を纏っただけの子供。そう映った。
「お前の好きなように生きればいい。お前は強すぎて、魔族として生きるのも退屈そうだ。ああやって笑っている方が案外似合うのかもしれんぞ」
どう生きるかなど自由だ。誰かに縛られる理由もない。争う行為そのものを好むシャクラには興味もなく下らない話でしかないが、かといってエスタの生き方を間違っているとは思わない。
実際、彼女と似た理由で何もかもを消し去りたいと思った少女が多くの同胞を殺したのを知っている。無数の屍の上で、なんの感情もないままに。
「正直な事を言ってしまえば、お前がいつまでも頂点に君臨してくれていた方が挑み甲斐もあるというものだが。まあ、無理を言ったところで興を削がれるような戦いをされてもつまらん。俺の渇きを満たすのはお前でなくてもいい」
長い時を生きてきて多くの魔族を見てきたが、エスタほど人間に憧れた魔族を知らない。シャクラは彼女が望むのであれば、それもまた一興だと笑う。
「俺たちも人間も生きている事に変わりはない。自分にとって何より得られるものが大きいと思うのなら選べばいい。俺は人間なぞに興味ないがね。悲しいだの悔しいだの下らん感情を知ってどうする?」
必要のないものを持てば判断力が鈍るだけ。彼には、およそ感情と呼ばれるものの殆どが備わっていない。ただ虚無にはなりたくなかった。意味もなく本能だけで生きる獣ほど退屈なものはない。拳を交え、血を流し、命を奪うか奪われるかの瀬戸際を楽しむ事こそがシャクラ・ヴァジュラである、と。
「……貴公は本当に戦うのが好きだな」
「なに、それ以外に楽しいと思えん残念な生き物でね」
「私は貴公が嫌いだが、ときどき救われるよ」
肉が焼けると彼女は平気そうな顔で火の中に手を突っ込み、指でつまんで皿に乗せた。指先が黒く焦げたが、パッと振ればすぐに治った。
「あら、そっちも準備できたのね」
「良い匂いじゃん。お腹減ったわ、アタシ」
スープの鍋を指一本で支えて鼻歌を歌いながら戻ってきたルヴィの横で、煤に頬を汚したフロレントがニコニコと嬉しそうな顔をする。短い時間であっという間に打ち解けたのもあって満足そうだ。
「ありがとう、それじゃあ食事にしましょうか」
やっと席に着いて落ち着ける────と思った瞬間、シャクラが椅子に手を掛けた姿勢のままぴたりと止まった。いや、彼だけではない。エスタも、そしてルヴィも時間が止まったかのように動かなくなり、ただ表情だけは険しくなった。
「ど、どうしたの、皆?」
フロレントは状況が呑み込めない。シッ、とエスタが指を口元に当てた。彼女たちにはハッキリと迫って来る敵意が感じ取れた。
「どうやら俺たちを狙っているようだが」
「私はパスだ。貴公はどうだ、シャクラ?」
「気配も消しきれん雑魚と戦えとでも」
二人の視線が静かにルヴィに向かう。彼女は心底呆れた顔をしたが、自分の強さをフロレントに披露してやるには丁度良い機会だと受け入れた。
「ほんっと、こういうときだけ面倒くさがるわよね、あんたたちって。────いいわ、ここはルヴィちゃんが如何に強いかってのを教えてあげないと」




