第22話「運も実力の内」
風のようだった。瞬きさえ遅い槍の一撃が眼球に触れるかどうかといった距離。エスタがもし槍を掴んでいなければ突き刺さっていたであろう、容赦ない狙い。エスタたちとは違う。これこそが本来の魔族だと恐怖さえした。
「あら、やっぱエスタは違うわね」
「契約者を狙うとは中々に図太い神経だ」
「当たり前でしょ? だってさあ────」
ルヴィの体が真黒く染まり、蝙蝠になって散った。次の瞬間にはエスタの背後に伸びた影からずるっと這い出て、再びフロレントを狙う。
「あんただって、こんな奴がいなくなった方が自由ってもんでしょ!」
全力で戦うには契約者となっているフロレントは邪魔だ。どちらがより強いかを常に殺し合う魔族が契約者を守る盾となっていてはつまらない。
「────そうか、貴公は私を見下しているのか」
目で捉えられなかった。隙を突いて背後に回り込んで弱いものから狙ったはずが、槍が貫いたのは虚空だった。突き出した穂先にエスタがフロレントを抱えて立っていた。あまりに一瞬の出来事に僅かな時間だけ思考が放棄される。
「……は?」
槍が灰になって先から崩れていき、態勢を立て直すためにルヴィは驚きつつも冷静に距離を取り、再び飛んできた蝙蝠を握りつぶして槍を形成した。
「なんなのよ。ちっともこっちなんか敵じゃないって感じ、シャクラと同じくらい腹が立つわ。新参だなんて馬鹿にして、結局クレールに負けた奴が!」
両手に槍を握り締め、地面を柄頭で叩く。黒い小さな渦が槍を呑み込んで周囲に広がった。そのどす黒い感情の籠った魔力は、フロレントでさえ全身が粟立つほどの恐怖を感じた。
「今度は逃げる間もないわよ、さあどうするかしら!────《串刺しの荊》!」
無数の槍が広がった黒い渦から場所問わずエスタを狙って突きだす。あらゆるものを貫通するルヴィが持つ能力。だが、その全てがエスタに触れるよりも先に灰になって散った。彼女はただ変わらぬ表情をして立っているだけだ。
「貴公は素晴らしい未来ある魔族だ。シャクラが認めるだけの腕はある。だが、所詮は新芽に過ぎぬ。荒れ狂う嵐の恐ろしさも知らねば、猛る炎の偉大さや深き水底の暗さも知らぬ若造だ。────平伏せよ、吸血姫」
一言の重みが全身を圧し潰すかのようにルヴィは膝をつく。自分の意思では立ち上がれず、頭を垂れて身動きが出来ない。息苦しさすら感じて冷や汗が噴き出す。
「ば、馬鹿なんじゃないの、ここで魔王の権能を使うとか……!」
「貴公が偉そうにするからだろう。下らん争いをしてる暇はない」
フロレントを降ろしてから剣を手に、もはや敵でもないルヴィのうなじに刃をそっと乗せた。嘗めた罰だと首を落としてやりたい気持ちを抑えて────。
「貴公を求めたのは契約者だ。選べ。死ぬか、契約するか」
「……はっ、殺せよ。アタシはあんたじゃなくコイツを認めない」
「そうか。だと言っているがどうする、契約者?」
明らかな敵意。自分に劣る生物には死んでも従わないといった雰囲気さえ感じるルヴィを従わせるのは難しい。かといって殺すという選択肢はフロレントの中に一切なかった。
「何ぼーっと考えてんのよ。さっさと首落とせばいいじゃん」
「だって、あなたはとても強いのに……」
「ええ、そうよ。アタシは強い。そしてあんたは弱い」
たかが人間。クレールとそっくりな見目をしておきながら彼女とは程遠い。そんな紛い物に従うくらいなら死んだ方がマシだと言い張った。
やれやれ手の施しようもない、とエスタが剣を握り締める。
「埒が明かん。どうせ私とシャクラの魔力さえ戻れば良いのだ、こやつを仕留めて餌にしてしまった方が手っ取り早い。もう首を落としても良いだろう?」
苛立ち始めたエスタに、やはりフロレントは首を横に振った。
「駄目よ。殺す事は簡単だけど、そんな事をしたって気持ちは良くないから。……そうね、じゃあ、そのまま話だけでも聞いてもらってもいい?」
「……聞いたところで何も変わらないと思うけどね」
ふいっと顔を逸らして変わらずツンとした態度を崩さない。フロレントはそれでも、微塵も腹を立てなかった。それどころかきっと分かってもらえると信じて疑わない。彼女はこれまでの経緯を全て包み隠さず話した。
アドワーズ皇国が辿った道。エスタとの出会い。ゾロモド帝国を討つ願い。全てを知ってから、ルヴィはバツの悪そうな顔を浮かべた。
「────つまりクレールの血筋はもうあんたしかいないって事ね」
「そうよ。エスタがいなければ、とっくに途絶えていたわ」
手を差しだして、ニコッと微笑む。
「でもまだ生きてる。エスタやシャクラのように、私の力になってくれる人たちがいる。だからあなたにも力を貸してほしいの。たしかに私にはご先祖様のように魔法も使えないし、今の時代を生きていくにはあまりに弱いかもしれないけれど────運も実力の内、なんて言葉があるでしょ?」
思わぬ言葉にルヴィは驚いてしばらく固まった後、俯いてクックッと笑いをこぼす。何が運も実力の内だ、と。力こそ全てではないか、と。だが不思議にも、そんなことを言ってのける人間の小娘の胆力には、なぜエスタやシャクラが契約を結んだのを理解させるほど魅せられた。
「面白いじゃない、あんた。たかが人間のくせに、血筋ってのは抗えないものなのかもしれないわね。……いいわ、契約してあげる」
どこからともなく蝙蝠が飛んできて、何かを捨てて飛び去っていく。ひらりと舞った羊皮紙を手に取り、自分の指先に尖った牙で穴を開けた。
「アタシの血で名前を書きなさい。あんたの願いが果たされるまで何があっても従ってあげる。この吸血姫ルヴィ・ドラクレアがね」