第20話「何も起きていない」
旅の始まりを良いものだったかと聞かれれば、それは違うと言うだろう。だが良いものになるという確信があった。予感の全てが現実味を帯びるほどのフロレントの温かさと真面目さが、簡単には靡かないシャクラまで動かしたのだから。
「……エスタよ。随分と顔つきが変わったんじゃないか」
「なんだ。貴公、起きてたのか?」
むくっと起き上がったシャクラが大きなあくびをする。
「いや、寝ていた。お前がわざと殺気を飛ばすまでは」
「ぐ……いや、それはなんというか試してみたくて」
「無駄な事を。俺が裏切るような塵に見えたか」
呆れながら転がっていた林檎を拾って齧った。
「お前という奴は、余計な事をして俺がもし反感を買ったらどうするつもりだ? その握った手綱から手を離す前に小娘の首を飛ばしても良かったんだぞ」
ぐうの音も出ない。フロレントを守るという一点においてはシャクラが相手でも可能だと自負はあるが、反感を買って敵に回ってしまう可能性の考慮などはしていなかった。そこは彼に対する信頼とも言えたが。
「ま、安心しろ。俺が契約するなど初めての事だぞ? 他の塵芥風情とは違う。クレールの子孫だからという理由でもない。俺はコイツが気に入った」
齧った林檎をエスタに投げる。彼女は振り返らずひょいと避けた。
「貴公は相変わらず分からん。闘争にばかり生きた男が」
「俺は俺なりに思うところがあっただけさ」
荷台から遠ざかっていく景色を眺めて、彼はぽつりと言った。
「長生きも悪くない。俺を恐ろしくも哀れだと言う小娘がどこまで足掻き通せるのか、少し見てみたくなった」
「良い趣味だな。まあ、私もそう変わらんが」
長く生きてきて、クレールやフロレントのように強い人間は滅多といない。まして今の契約者ときたら、剣を握らせても勝てる相手などいるのかさえ疑わしい。なのに心底惹きつけられるものがあった。
それがアドワーズの血筋だからそうさせるのか、それともフロレント自身に魅力があるのかをまだ二人共がハッキリと理解できていない。少なくともエスタは彼女自身に惹かれている気はしていた。
「それにしてもルヴィか……。貴公とは仲が悪かったのでは?」
「別に悪いわけじゃない。アイツが一方的に襲い掛かって来るだけだ」
「分からん……。それは仲が悪いのと、どう違うと言うんだ」
「魔族だぞ。強い奴とは戦いたくなるのが本能だろう。俺も、お前も」
否定はできなかった。魔族である以上、どれだけ拒絶しても闘争に対する意識は取れない。腹が減るのと似ていた。とは言ってもルヴィがシャクラに対して挑んだ数はエスタが把握するだけでも数千では留まらない。
勝てないと分かっていながら喧嘩を売るのは、単純に嫌いだからなのではないだろうかという考えも拭いきれず、いまいち納得できなかった。
「……ム。前から誰か来る」
馬車の速度を落とす。前からやってくるのは数人の兵士らしい恰好をした男たちだ。装備を見て、彼女はすぐに相手がごろつきだと分かった。
「おい、そこの! ちょっと止まれ、どこから来たか聞かせろ」
「ラタトスクからだ。それで貴公らは?」
「そうか。積み荷はなんだ、見たところ騎士様っぽいな」
数人の男たちが馬に乗ったまま腰に提げた剣を抜く。
「騎士様一人じゃ大変だろう、俺たちが荷物を運んでやるから降りな。なに、殺したりはしねえさ。むしろ良い思いをさせてやっても────」
荷台から降りてきたシャクラが、くすくす笑う。
「なんだ、小うるさい蠅が集ってきたか」
「……男もいたのか。まあいい、降りてくれたなら手間が省けた」
「ん? ハハ、愉快な連中だ。俺と戦いたいのか」
馬から降りてきて、彼らの標的はシャクラに絞られた。ぱっと見はエスタなど騎士といえども相手にもならないと思っているのだ。
「シャクラ、貴公に任せても?」
「ああ。ちょうど退屈だったんで、良い暇潰しになる」
腕を組んだまま男たちの前に立って、顎をあげて見下す。
「いつでも来い、少し遊んでやろう」
「調子に乗りやがって、後悔するなよ!」
一人が剣を振った。明確な殺意が刃に乗り、肩から胸へ向かって仕留めようとする遠慮のない勢いがある。────だが、肌に触れた瞬間に剣が折れた。
「……はっ?」
男が頓狂な声をあげるのを、まだ彼は笑って見下した。
「魔族の体にそんな矮小なガラクタが通るわけないだろう。いつまでも呆けているなよ、俺の気が変わる前にさっさと仕留めに来い」
指をクイクイ動かして挑発するが、彼らは顔を青ざめさせて背中を向けた。武器どころか馬すら捨てて。
目の前でとても現実とは思えない光景を目の当たりにして恐怖しないはずがない。躱す事もなく受け止めた挙句、剣が折れたのだから。
「む。おい逃がすなよ、シャクラ」
「分かっている。そら、全員消えるぞ」
ぴんと指を立てると空に暗雲が渦巻く。あっという間に悪天候を呼び寄せ、耳を劈く落雷と共に逃げ出した男たちに直撃させて塵も残さない。
あまりの轟音に飛び起きたフロレントが馬車から顔を覗かせた。
「何かあったの? 大丈夫?」
二人は彼女に振り返って口を揃えた。
「何もなかったよ、契約者」
「何も起きてなどいないさ」