第2話「千年の邂逅」
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フロレントが目を覚ましたのは古びた丸太小屋の中だった。簡素なベッドにはクッションが敷き詰められ、眠っていた彼女が冷えないようにシーツが掛けられている。少し使い古されているのか、くたびれていて埃っぽい。
「目が覚めたか、契約者。まだ眠っていても構わんぞ」
鎧を脱いで体を拭くエスタを見てぎょっとする。大きな甲冑を着ていた理由は胸を見れば分かった。さらに驚かされたのは、その筋肉質の体が傷跡だらけな事だ。どれだけの死線を潜り抜けてきたのだろうと息を呑む。
「いやはや、千年ぶりの湯浴みは良いものだった。人間の文化にはさほど親しみがないが、これだけは称賛に能う。血を浴びるのとは違う心地良さだ」
何を言っているか分からない。フィルドという裏切者が迫って来る恐怖から解放された次は、目の前で悠長に喋って服を着るエスタに不安を抱えた。
「バーレン公爵たちは……あなたが殺したのよね」
「夢ではないぞ。そなたが守れと命じたから始末した」
ふふんと自慢げな顔をする姿は、背の高さや立派な体格とは真逆で少し幼い雰囲気がある。よくよく見れば見目も麗しく、本物か偽物か分からない角も彼女に似合っていると感じた。
「しかし、今の時代の人間は貧弱よな。千年前の連中が見れば泡を吹いて倒れそうだ。そなたが眠っている間にあちこち見て回ったが、なんだあれは? 魔法もなく持ち歩く武器も防具も粗悪品ばかりだ。実に愚鈍で知性もない」
今度は不満そうにする。契約者が現れて千年の呪縛から解放されたはいいが、戦うにはあまりに退屈な時代。フロレントから見れば策謀が渦巻き戦火の広がる時代だが、エスタは平和ボケでもしたのかと感想を抱く。
「ねえ、エスタ。あなたが何者なのかは気になるけど、見て回ったって言うのはつまり、ここからすぐ近くの町へ行ったのよね。どうなっていたか教えて」
フィルドたち内通者の手引きもあって、敵軍の侵攻をあっという間に許してしまったアドワーズ皇国の首都メルランが火の海になるのに時間は掛からなかった。戦火が広がっていく様を見ながらの脱出には心が痛んだ。
捕虜でもいい、一人でも多く生き残ってくれていればと尋ねたが、エスタの答えは無情にもかぶりを振って返すといったものだった。
「じきに亡国だ、酷い有様だった。あれはそなたの国か?」
「……ええ。父が国王だったわ」
「そうか。哀れな契約者だ、肉親を亡くしたのだな」
エスタは特に悲しいという感情を抱かなかったが、契約者ががっくり項垂れているのを見れば、酷く傷ついたのだと察する事はできた。
「ストレスで髪が白む事もあるというが」
「これは生まれつき。私たちの血縁は皆がこうなの」
「ほお。私が随分昔に争った魔導師も、そなたに似ていたよ」
エスタがじろっとフロレントを見て微笑んだ。
美しく伸びた白い髪を一本に束ねた姿。山吹色の穏やかさと力強さの宿った瞳。笛の音のように高く澄んだ声。何もかもがエスタに千年前を想起させた。
「魔導師って何? 絵本の話でもしてる?」
「昔は本当にいたんだ。この時代に魔法はないようだが」
人間が貧弱になってしまった原因のひとつだろうと彼女は呆れたように言った。千年も昔であれば剣を振れば鉄だって軽々と切り裂けたし、手をかざせば炎を放つ事もできた。だからこそ自分たちと人間は対等に争っていたのだ、と。
「寂しいものだが千年も眠っていれば様変わりして当然か。進化より退化ではあるとしても、まあ、かといって進んでいればそれはそれで困惑した。これで良かったのやもしれんと言い聞かせるべきだな」
強く吹く風が窓をがたがた揺らす。
「寒くないか、契約者よ。暖炉に薪をくべてやったが、いかんせん隙間だらけの小屋だ。森に火を放つのも悪くないが契約者が喜ばぬだろう」
「ありがとう。寒くないわ、平気よ。でも……」
毛布を着こんで表情があまり見えないようにする。自分で確かめるまでは信じたくないが、かといってどの程度の惨状であるかを想像するのも辛い。
「私、どれくらい眠っていたの?」
「さあ、知らぬ。少なくとも町は既に制圧が済んだ後だ」
がたがたのテーブルに置いた鎧を手に彼女は首を横に振った。
「そなたの仲間が生きているとは思えん。連中、わざわざ捕虜になどせず並べて首を刎ねておったわ。趣味の悪い奴らだ、いつから人間はああも醜悪に? 我ら魔族よりも遥かに野蛮な獣に成り果てておるとは。……命を賭して守ったものがあれでは、クレールもさぞや嘆くであろう。こんなはずではなかったとな」
突然出てきた名前にハッとフロレントが顔をあげた。
「今、クレールって言わなかった?」
「……ム。ああ、そう言ったが」
「クレール・ディア・アドワーズの事を言ってるの?」
おおっ、と明るい表情を浮かべてエスタは喜んだ。
「懐かしき名だ! 千年前、忌々しくも私にトドメを刺すのではなく封印してみせた魔導師の名だ、敬意さえも抱くほどの素晴らしき好敵手であった!」
興奮してしまったと咳払いをしてエスタは少し恥ずかしそうに頬を掻く。
「……すまない、年甲斐もなく。だが、なぜそなたのような人間が千年前の魔導師の名を知っているのだ? 何か文献のひとつでも残っていたとか?」
それまでずっと塞ぎ込んで彫刻のように固めていた不安の表情だったフロレントが、くすっと小さく笑った。それから自分を指差して────。
「私はアドワーズ皇国の皇女なの。名前はフロレント・クレール・フォン・アドワーズ。クレールは偉大な建国者。────私たちの御先祖様の名前。クレール・ディア・アドワーズ、彼女の血を私は継いでるの」