第19話「千年後の期待」
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────予定されていた二日が過ぎた。相変わらず雨は降り続いたが、旅の再開にフロレントの表情はとても晴れやかだった。
朝食のときもずっとニコニコしていて、これから立ちはだかるであろう困難など大した問題でもないと言いだしそうな活力に満ち溢れている。
「皆様、どうかご武運を」
そんなハシスの言葉に背中を押されて、雨の中を用意してもらった大きな幌馬車で出発する。馬は貰わず──途中で手放す事になったら可哀想だからとフロレントが嫌がった──エスタのアパオーサに頼った。
「良い馬車をもらったじゃないか。俺も働いた甲斐がある」
荷台でだらしなくクッションにもたれながら、シャクラはゆっくり休んでいた。二日間もの間、大陸全土に自身の魔力を広げて封印の正確な位置を特定。そのうえ安全に移動できそうなルートまで調べ上げてみせたのだ。
その間は一睡もしなかったので、大きなあくびがでた。
「ありがとう、シャクラ。あなたが調べてくれたおかげで、近くにもうひとつの封印があるって分かって嬉しいわ。……問題は他のふたつね」
御者をエスタに任せて、同じく荷台で椅子に腰かけて休んでいたフロレントは、ハシスから貰った地図を大きく広げる。出発前につけておいた印を見て、う~んと強めに唸った。
運が良かったのか、誰も把握していないルバルス領にある森に隠れていた。最初はそこへ向かう事に決まったが、残りふたつは他国の領土であり、一方は帝国の支配地域だ。接敵は避けられないだろうと考えて頭を悩ませた。
「……今朝、あなたたちから聞いた話通りだとしたら、帝国は魔族と繋がってる可能性があるのよね。今は戦力を地道に増やしたいときなのに」
黙っていようかとも考えていたエスタは、フロレントに魔族が関わっている可能性を打ち明け、自らの傷が未だ癒えていないのを伝えた。シャクラにいつまでも黙っていられないのなら話すべきだと言われて、その方がいいだろうと納得しての事だった。結局、魔族の出現については特に何も不安を感じたりはしなかったのでホッとしたが、傷を隠していた事にはこっぴどく怒られたのだった。
「なに、問題はないと俺は思うがね」
「どうしてそう思うの?」
「人間を滅ぼすなどひと晩あれば出来る事だ」
フッと鼻で笑って、あたかも当然のようにそう言った。フロレントにはにわかに信じ難いが、御者台で静かに話を聞いていたエスタもうんうん頷く。
「人間の質が落ちているように魔族の質も落ちているか、あるいは何か目的があって派手な動きを見せていないのだとしたら、俺たちがどう動いたところで連中の計画に大きな変化はない。その間に、こっちは力を取り戻せばいい」
それに、とシャクラは目を瞑ってもうひとつあくびをする。
「次の封印からはルヴィの魔力を感じた。あの蝙蝠女なら偵察も得意だし、弱くもない。俺たちがいれば契約も難しくはないだろう」
「そうなの。ルヴィという魔族も、あなたたちみたいに?」
シャクラは積み荷の麻袋から取り出した林檎を片手に、軽く投げては掴んで遊びながら「強い、間違いなく」と懐かしんで答えた。
「俺たちに比べれば生きた年月は新芽だが、それが強さに直結するわけではない。もう千年あれば、俺たちを超える逸材だったと言える」
「ふうん……。とても頼りになる人なのね」
林檎を齧る手が止まった。怪訝な視線で、シャクラは「変な奴だ」と言うだけ言って、そのまま居眠りを始める。ゆっくり落ち着いた寝息が聞こえた。
「……? エスタ、私って変かしら?」
「む。そうだなあ。聞いていた限りでは……少し?」
「うそ、どのあたりが変だと思ったの」
「そなたが私たちをいつも『人』と呼ぶ事だ」
言われてみると確かに、とフロレントが難しい顔をする。彼らは魔族であって人間ではないのだ。かといってそれ以外に適した表現が見当たらない。
「じゃあなんて呼べばいいの?」
「別に直さなくても良い。我々が思うのはつまり……」
どう言ったものかとしかめっ面をして考え込んでから────。
「我々は魔族だからな。そうやって仲間として簡単に迎えられるのがシャクラにはまだ理解できんのだろう。そいつは本来、人間があまり好かぬゆえ」
振り返って、ぐうぐう眠っている無防備なシャクラを見るなりフッと笑みが零れた。信じられないほど殺気もなく今なら寝首を掻く事も容易そうだ、と。
「しかし、そなたの事は嫌いではないらしい。そうやって無防備に眠るなど魔界では命取りだが、そなたならわざわざ私を使って殺す事もあるまいと思っているんだろう。……不思議なものだ。我らが一人の人間に敵意を示すならともかく、共に契約を交わすなどとは、千年前には想像もしなかった」
────封印される直前の事を思い出す。片腕を落とされてなお、その塞がった傷口を痛む様子さえなく、息を切らして冷や汗を滝のように掻いても毅然とした強さを持っていた若き人間の娘。
『あなたの封印は、いつか遠い未来できっと誰かが解いてしまうかもしれない。でも、復讐とか支配とか、そんなしがらみのない世界があなたを待ってるはず。……私はそう信じてる。だからあなたも、ちょっとだけ期待してみてよ』
戦いの果て。もはや一歩を進む気力すら失って立ち尽くすだけの私を前に、トドメを刺すのではなく、少し苦しい時間になるかもしれないけれど、と言いながら封印した娘の勝気な笑顔が忘れられない。
光に包まれる最中に差し出された小指の頼りなさときたら、握り返すだけでも折れてしまいそうなのに、そうはならなかった。
『約束よ。いつかあなたの封印が解かれたら────』
野蛮な時代だ。人間が同族嫌悪でもするかの如くいがみ合い、争って血を流す。復讐や支配に取り憑かれている酷い時代だ。本来なら、それ見た事かと失敗を嘲るものだろう。だが、エスタはどうしても期待がしたくなった。
「契約者よ、そなたもきちんと休んでおけよ。久々にゆっくりできたとは言うであろうが、この先の事も考えれば、いつでも休めるよう癖をつけておけ」
雨はいつの間にかあがって、心地良い晴れ空が広がっていく。
「そうね。確かに、まだちょっと眠たいかも」
「うむ。目的地に着いたら起こすから眠っていろ」
────なあ、クレールよ。そなたが言ったような世界はまだ知らぬが、こうしていると思う事がある。……そなたの言葉を真実にする者が現れたのだ。