第18話「人間式の約束を」
戦争の裏側で何が起きていようと契約者であるフロレントの願いは確実に叶える。エスタの強い意志は変わらない。徐々に戻りつつある魔力を実感するように何度も握り締めては開いた手を見つめた。
「……大丈夫。今は契約者の願いだけを見ていればいい」
自分にも恐ろしいものがあるのだな、と内心でひっそり笑った。どんなものでも力を振るえば誰もが平伏し、誰もが恐怖を抱いた存在。魔王であるエスタ・グラムの姿だ。
それが、いかにして人間の心を掴めばいいのか分からないと子供のように感情を喚かせている。もし彼女が旅を共にする自分よりも、いつか敵対するやもしれない人間たちと共に在る事を選んだら、そのときは嫌でも必ず、この手で殺さなくてはならないのだろうか、と心底怖れている。
「エスタ! こっちよ、とても良い部屋だわ!」
「う。ああ、本当だ。ここならゆっくり休めそうだな」
案内された部屋は豪華で、城内でも最も良い来賓用の部屋だと言う。ハシスが自ら家具なども発注するほど気合が入った一室だ。
「ちょうど君たちのために風呂の用意もさせたから、部屋の場所も伝えたし後はごゆっくり。もし何かあれば我々もすぐに対応するから、困った事があればいつでも言ってほしい」
「ありがとう、助かるわ。ちょうど湯浴みがしたかったの」
眠る以外でもよく疲れが取れる。温かい湯の中にじっくり浸かっているだけで時間を忘れられそうだとエスタの手を引く。
今の世界は彼女にとって小さな地獄であるが、希望が全くないわけでもない。エスタを兆しとして全てが上手く回り始めている。誰かが誰かのために手を差し伸べ合える世の中が来るかもしれない。潰えた皇国の願いを、今度は小さな国ひとつではなく各国へ届けられればと思えた。
たとえ魔族と呼ばれる者たちの力を借りた恐怖から始まるとしても。
「契約者よ、久方ぶりの湯浴みであるぞ!」
案内されて脱衣所にやってくると、鎧が消えて、着ていた服をさっそく脱ぐ。用意されたかごに放り込んでおけば後はメイドたちが洗濯する。自由に浴場を使って、好きなときに出てきて大丈夫だと伝えられてエスタは子供のようにそわそわしてフロレントの用意が終わるまで待った。
「先に入ってても良かったのに」
「契約者より先に入る馬鹿がいるものか」
泳いで遊べるほど広い浴場の造りにウキウキして、先に全身くまなく洗ってからだと注意される。少し残念そうにしながら頭を洗い始めるエスタを見て、フロレントが「背中を流すわ」とタオルを泡立てた。
「いいのか、普通は逆であろうに」
「私のために頑張ってくれる人を労うのは普通でしょ?」
「そういうものなのか。私には分からん」
「そういうものなのよ。私には分かるの」
温かくて柔らかい感触が背中のあちこちを行ったり来たり。タオル越しに伝わる小さな手の細長い枝のような指のこそばゆさが心地良かった。
「……ねえ、エスタ。あなたのおかげで本当に色々上手く行ってるわ。ありがとう、こんな言葉でしか感謝を伝えられないけれど許してちょうだい」
「千年も同じ場所に居続けたのだぞ、私こそ礼を言わねばならぬ。こうしてそなたに背中を流してもらうだけでも価値のある千年だったと言える」
退屈だった。最初はたかが千年と軽んじて、百年で精神が蝕まれた。三百年経てば感情を失い始め、五百年で興味をなくした。変わりゆくも変わらぬ景色を眺め、人々は封印の存在を徐々に忘れた。遠い過去に置き去りにされた七百年は退屈に変わった。もう誰の声も思い出せないほど空虚な時間を過ごして、時折現れる野生動物の自由に駆け回る姿にうんざりして眠った。
────それからまた三百年。ついに現れた解放の瞬間は感動的で、衝動的で、そして恋焦がれた世界への一歩だった。なのに変わり果てていた。簡単に触れれば壊れるほど人間は脆くなっていた。
「私には闘争が全てだった。だが、今は違う。まだ短いなれどそなたと過ごす日々は中々に愉快だ。人間の考え方など未だ分からぬが、そなたといると、こうして穏やかに過ごすのも悪くないと思えてくる」
優しく背中をさする手がぴたっと止まった。
「……ずっと一緒にいてくれる?」
「当然、そなたが望めばいくらでも────」
「契約なんて無くても、いてほしいの」
言葉を途切れさせたままエスタは静かに俯く。
「ごめんなさいね、気弱な事を言ってしまって。……ほら、私って、もう誰も家族がいないでしょ。今はあなたが私の家族みたいなものだから」
本当はどちらも分かっている。いつか別れの時が来るかもしれない事は。フロレントはどこまで行っても人間で、エスタは魔族なのだ。
だが、彼女のひと言が決意を促す切っ掛けになった。
「仕方あるまい」
たっぷり湯の張った大きな桶を片手で軽々持ち上げて、頭からざばっと被って泡をしっかり流す。彼女はそのまま立ち上がって、ぺたぺたと駆けながらゆったり泳げるほどの広い湯舟の中へ飛び込んだ。
「ちょ、ちょっとエスタ……いきなりどうしたの?」
湯の中から顔を出して、心配するフロレントを振り返った。
「ときどき私は、そなたが愛おしくなる。……おそらく考えている通り、多くの魔族はそなたが人間の側に立って我々と対すれば敵に回るやもしれん」
感情などに振り回されるのは自分くらいだろう、とエスタは思った。シャクラはそもそも五千年を生きたと言われていて、その本性まで彼女には見抜けないほど特異な存在だ。契約が履行されれば命の保証もない。他の魔族も同様に、フロレントを契約に値すると見ても、どこまで従うかは分からなかった。
寂しくも力強く微笑みながら、彼女はそっとフロレントに小指をだす。
「────だから約束しよう。他の誰もがそなたの敵に回ろうとも、私はそなたと共に在ろう。ずっと昔に教わった、人間式の約束だ」




