第15話「封印を解く理由」
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雨が強く降るラタトスクの王城で、シャクラは千年ぶりの外の景色を雨に打たれながら最も高い屋根の上に立って見下ろす。
虚ろな気分で時を重ね続けてきた世界の姿を瞳に映した。
「なあ、エスタ。クレールが遺せたものはあれだけか?」
彼の隣に立つエスタが目を瞑って小さく頷く。
「私が目覚めたときには既に亡国への末路を辿っていた。フロレントが助かっただけでも良かったと見るべきだ。復興はままならぬだろうがな」
アドワーズ皇国出身の人間は、彼女の見立てでは殆どいないと考えられた。少なくとも都市の人間は皆殺しだった。生存者がいたとしても、日々を生きていくのは不可能だ。帝国を討ち滅ぼすまでは安全とも程遠い。
「不愉快だな。心底……心底不愉快だ。あの小娘が俺たちを倒して得たものが、こんな戦火の塵で埋もれた薄汚い世界だと言うのか?」
千年前。多くの闘争が起きた。人間と魔族の戦いは激しく、その中でもクレールは群を抜いて強かった事もあり、多くの人々の希望となった。何度傷ついても立ち上がり、その都度高い壁を越えて戦いを挑んだ。
彼女は信じていた。全ての人間の団結する心を。必ず良い未来が生まれる、そのために魔族は倒さねばならないと誓いを立てた。────やがて大魔導師クレールは五人の最強の魔族を封印し、人類に勝利をもたらす英雄となった。
「……なんて有様だ。こんなにも苦しいと思ったのは初めてだ。魔族である俺が他者を、それも宿敵とさえ認めた、あの娘を哀れむ事になろうとは」
シャクラは魔族の中でも特に人間に近い種だ。命に尊さなど感じていないし、人間に興味もない。ただクレールという『存在』に価値を感じていた。彼女がいるからこそ人間は強い。彼女がいるからこそ人間は団結する。────いなくなった世界が、こんなにも無様であるとは信じたくなかった。
「だがひとつ気になっている事もある。お前がいれば、いくら封印されて弱ったままだったとしても、今この世界にいる人間を滅ぼすくらいは眠るより早いはずだ。なぜ慎重な行動を取っている?」
言われて、少しの間。エスタは自らの鎧を霧散させ、着ていた服を脱いで背中を見せた。赤黒い、魔力の感じられる歪な傷。皇都の帝国兵たちを討った際に出来た矢が刺さったものだ。
「……彼女の国を取り戻してやろうとしたとき、敵兵の中に魔族が混ざっていた。あまりに矮小な奴だったせいで反射的に始末してしまったが、矢に呪いが宿っていたようだ。治すには、まだ時間が掛かるだろう」
服を着直して鎧を身に着け、エスタは無感情に告げた。
「クレールの国が滅んだ理由は人間の堕落だけではない。我々の知らぬ魔族が千年の間に産み落とされ、気に喰わぬ手段で巣食っている可能性がある。手の内が分からん以上、今の私が無理をすれば契約者を死なせてしまうやもしれん」
千年前の魔族の中でエスタは、自身に強者としての誇りを持つシャクラでさえ魔王と認める実力者だ。それは単純に強いからだけでなく、あらゆる面において正しく知恵の回る点さえも評価された。
だから無理をしたくないと言うのに彼は納得できた。同時にやはり心底不愉快な気分にさせられた。自分たちを打ち負かした者が世界から消え失せ、脆くなったところを踏み砕く卑怯者の行いである、と。
「ム。そろそろ戻ろう、良い匂いがしてきた。貴公も腹が減っているのではないか? 人間の作る食事は美味だぞ、腹立たしい程に最高だった」
「なんだ、奴らの文化に染まるのがお前の流行りか?」
小馬鹿にされたエスタが目を細める。
「フン、だったら食うな。貴公の分も私が頂く」
「食わんとは言ってないだろ。冗談の分からん奴め」
「貴公と冗談を言い合う仲だとは思っておらん」
「やれやれ。同じ人間と契約したんだから少しは、」
「いやだ。私は貴公とは仲良くなるつもりはない」
「……呆れた奴だな。分かったよ、それで構わんさ」
随分とフロレントに惚れ込んでいるのだろうな、とシャクラは苦笑いをする。ふくれっ面でふいっと顔を逸らす姿はまさしく子供だ。契約者を誰かと共有するのが気に入らないのはすぐに分かった。
「よくそれで他の連中を解放する気になったな」
「なんだ、私に何か言ったか?」
「ハッ、別に何も。存外退屈しないと思っただけだ」
酷い気分も少しはマシになった。フロレントとエスタ、人間と魔族が分かり合う日が来るのは、中々に見応えがありそうだと彼は鼻で笑った。
「ああ、そうだ。エスタ、ひとつ忠告しておいてやろう」
城の中へ戻ろうとして彼は足を止めた。
「俺たちは所詮魔族だと言う事を忘れない方がいい。アイツは理解してくれたとしても、多くの人間は俺たちと相容れない存在だぞ」
言われた途端、ビクッとしてエスタは俯く。そのままシャクラが歩いていくのを呼び止める事もなく少しだけ、本当に少しだけ、彼女は嫌な気分になった。
「……分かっている」
どれだけ契約を交わしていたとしても、魔族が人間の英雄になる事はできない。いつか誰かが、こう言うだろう。
『魔族は危険な存在だ、共存すべきではない』
いずれ必ず決別の時が来る。フロレントがどちらを選択するのか、なんとなく心では理解していた。胸のあたりに何かが詰まった感覚の居心地悪さを覚えつつ、彼女はひとまず考えを頭の片隅にしまった。




