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第1話「契約の時」

 雪深い森の中、息も絶え絶えに歩く。血が流れ続ける脇腹を押さえながら、このまま死ぬのだろうかと不安になりながら必死に生へしがみついた。


『皇女を探せ! そう遠くへは行っていないはずだ、必ず仕留めろ! 褒美はたっぷり出してやるから急げ、決して逃がすんじゃないぞ!』


 小さな国の、小さな変化。いつまでも続くと思っていた平和などありはせず、ほんの僅かな希望に縋って逃げ延びた。


(……バーレン公爵。父への恩も忘れ、敵国に寝返るだなんて思いもしなかった。良い顔を見せていたのは、今日このためだったというの?)


 切り裂かれた脇腹が痛む。今にも絶命しそうな苦痛も興奮状態にあるせいか少しだけ和らいでいたが、倒れるのも時間の問題だ。


 ひとつだけ幸運だったのは強く吹く風と分厚い雪が彼女の足跡を隠してくれた事。不運だったのは自分がどこへ向かっているかも分からない状況である事。生き延びるのにまたとない好機でありながら、死の実感さえ湧いてきた。


 どうやって生き延びよう。傷は浅くないが決して深く致命傷というわけでもない。しかし放置もできない。黙っていれば治るかすり傷ではないのだ。


 怪我とは殆ど無縁に生きてきた二十歳にも満たない少女にとって、鋭い剣で切り裂かれる鉄の冷たさと痺れる痛みと灼熱の感触は耐えがたい。彼女の中にあるプライドひとつが意識を保たせている。


 時間はゆっくり、しかし苛烈に進んで彼女の体を蝕む。幸いにも襲撃があったときには『少しでも自衛できるように』と剣術の指南を受けていたところで、戦うのは難しかったが着ていた服は動きやすく逃げるのには最適だった。


(ああ、駄目だ。足が動かなくなってきた……。こんなところで死にたくない。バーレン公爵の好きにさせたくない。たとえ国が滅ぶのだとしても)


 既に戦火はどこまでも広がっている事だろう。両親は既に殺され、自分も今に死にそうだ。裏切者の思い通りになるのは嫌だ。なのに限界が近かった。このまま死ぬなんて、こんなに悔しい事があっていいのかと嘆く。


 意識も朦朧として辿り着いた先で一瞬だけ痛みを忘れるほどの光景が飛び込んで来る。その場所だけが円形に切り拓かれ、よく晴れた日のように雪も積もっていない。


 あるのは地面に描かれた気味の悪い紋様。見ているだけでも全身が震えあがり、怖気立った。ここにいてはいけない気がすると感じる。


「見つけたぞ、フロレント皇女。よくもここまで逃げられたものだ」


 しわがれた声が蛇のように迫った。たっぷりの口ひげについた雪をバッと手で払いながら、下卑た笑い声を小さく響かせる老いた男を彼女はギッと睨む。


「バーレン公爵、いいえ、フィルド! あなたという人は……!」


 フィルド・フォン・バーレン。国王に仕え続けてきた腹心も皮を剥がせば地位や金に強欲な男だ。誰かが飢えていようと自分の腹が満たせればそれでいい。いつ滅ぶかも分からない平和主義の小さな国と共に沈むつもりはない。


「フフ、分かりますよ。憎いでしょうな。当然の事です、そのように睨むのも良しとしましょう。どうせここまでの命だ、存分に恨むがよろしい」


 フィルドの息のかかった兵士は大勢いた。歴戦の精鋭騎士までもが何人も裏切った。頼りになる者たちも皆、フロレントを守るために戦死した。必ず逃げ延びてくれると信じて。


(最悪だ……。ごめんなさい、私では期待に応えられない)


 歩くのをやめて呼吸が整い始め興奮が冷めて来ると痛みが増してきた。手で押さえて分かる酷い出血。フィルドたちにトドメを刺されずとも、そのうち絶命する。もだえ苦しむ様を楽しむように彼らは跪く彼女を眺めた。


『……高貴なる血族よ。契約の時だ』


 誰かの声が響く。幻聴かとも思ったが、聞こえていたのは自分だけではないとフロレントは周囲の様子を見て悟った。


 血で汚れた紋様が赤黒く輝きを放ち、また声が響いた。


『助かりたくば()べ。命じろ。我こそは────』


 頭の中に浮かぶ。何が起きているか分からない。フロレントはそれでも構わない、ここで死ぬつもりはない。と、その名を叫んだ。


「────私を守りなさい、エスタ・グラム!」


 彼女の背後でブクブクと湧きあがる赤黒い液体の中から、男か女かも分からない黒い甲冑の騎士が漆黒の派手な装飾をした剣を片手に浮かんで現れる。


 黒に近い茶色の長髪と真紅の瞳。鋭く尖った牙を覗かせて不敵な笑みを作った。


「良かろう、契約者。任務とはすべからく遂行されるものなり」


 一瞬、時が止まったような感覚に落ちた。エスタと名乗った騎士が踏んだ一歩。フィルドが何か怒鳴った気がしたが、騎士が剣を軽く振った直後に広がった惨状が全ての感覚を掻き消すほどの衝撃を与えた。


 その場にはフロレントと黒い騎士以外、誰も生きてはいない。


「あなた……いったい何者なの……?」


 冷静に見てみると異常だった。エスタと名乗った騎士の頭には、禍々しさのある歪な形で天を衝くような豪奢な双角があった。およそ人間とは遠い生物にさえ感じる騎士はスッと柔らかく膝をつく。


「千年の封印を解いた人の子よ、苦痛によくぞ耐えた。そなたは実に運が良い。傷が痛むであろう。状況を説明してやるには辛いはずだ、今は少し休め」


 不安はあった。だが首の皮一枚で命が繋がったのは間違いない。傷口をエスタに触れられるだけで痛みが和らぐ。疲れがどっと出て、ゆっくり意識を手放した。

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