祭典
怪異の設定は『イット・フォローズ』からのパク……借用です。
「それ」に悩まされるようになったのはオーガニック・キャンプに来てすぐのことだった。
寝入りばな、ぼくの他には誰もいないはずの部屋で物音がする。トイレや、バスルームから。ひょっとするとキッチンなんかでも。置いてあるものが落ちたりするし、床が濡れたりしていることもある。いわゆるポルターガイストと言えるだろうが、気になるのはそれより、音だった。
例えば、オノマトペで表現するならば「ガサゴソ」とかではなく、言うなれば、「ぬちょ」とか「ぴちゃ」だった。規則的で、結構激しい。よく耳を澄ませば低い唸り声や嬌声が聞こえる。
どれだけ脳が理解を拒んでも分かってしまうことというのはあるが、これはどう考えても性行為の音だ。そこまでの害がないだけに、鬱陶しいという気持ちが募った。
「それ」に悩まされるような何かをした覚えはなかった。つまり、曰くありげな祠を壊したり、錆びついた錠前を破壊したりとか。
「物音に悩まされてる? ジェームス、考えすぎだ。きっとヨガ・プログラムのやりすぎで、脳味噌を半分ニルヴァーナに忘れたんだろ」
デイヴィッドはソイミート団子のクスクス煮込みを如何にも不味そうに咀嚼しながらそんなことを言って寄越した。
ぼくがこのオーガニック・キャンプに来たのは、カウンセラーに薦められたからだった。都会の喧騒を離れ、木や木綿の手触りや土や草の香りに囲まれ、原始的な生活を体験するワークショップやヨガや瞑想を通した自己陶冶を行う数週間のプログラム。バカンスを前にして四年付き合った彼氏と別れ不眠症になっていたぼくは、深く考えもせず承諾していた。
最初のラウンドテーブルの時間で隣になったデイヴィッドは、全然オーガニック・キャンプにいなさそうなタイプに見えた。強靭な顎。少し背は低いけれど、強靭な体躯。いかにも人の悪そうな笑い方。
「あー。おれは……デイヴィッド・グリーン……ハッパを抜きに来た。よろしく」
前の彼氏より、という比較をしてしまった時点で負けていた。そして、なお悪いことにデイヴィッドは事あるごとにぼくの側に現れた。
──なんてこった。健康なヴァカンスを過ごすんだろ。しっかりするんだ、ジェームス。ノー・セックス、イエス・オーガニック。世俗の楽しみなんて山を降りてからやればいい。
数日後には寝ていた。しかも、本人の魅力に反比例すると言わんばかりに、びっくりするくらい気持ちよくなかった。なんというか、とにかく身勝手で、早かった。犬に小便を引っ掛けられたくらいの感じだった。
そして次の日からデイヴィッドはぼくの目の前から忽然と消えた。
「だとしても、物が落ちるわけない」
「寝ぼけて落としたんだ。くだらない話はやめてくれ」
デイヴィッドはこちらを見もせずに残りのクスクスを掻き込んで立ち上がり、食器の返却コーナーで出会った女と話しはじめた。あの夜以来、話をしようとすれば決まってこうだった。
ため息を吐きながら冷めきったベジ・カレーをつついていると、向かいに髭面の男が座った。
「どうかされましたか」
早く食べきってしまうんだった、と後悔した。
ぼくはこの男のことを心の中で密かにラスプーチンと呼んでいた。常に首まで隠れる黒い長衣を着ていて、無地のTシャツとか生成りのシャツで過ごしている人が多いオーガニック・キャンプと全く馴染んでいなかった。後ろで括られた挑発や微かに白いものの混じる無精髭も怪しさを助長している。
「いえ、別に」
「物音に困っていると、聞こえましたが」
雑穀が喉に詰まりそうになった。
そこまで聞かれていたならもう仕方ない、とぼくは話し始めた。もう午後のプログラムが始まるころで、食堂からは人が居なくなりつつあった。気付くと、怪奇現象のことを離れ、ここに来るまでの経緯、別れた彼氏への愚痴、学生時代の挫折、父親が温室で日焼けをしようとして人体発火して焼死したこと……あらいざらい話していた。
全てを聞いたあと、怪僧はようやく口を開いた。
「それはつまり、グリーンさんと寝た日から、ということではないのですか」
「へ? ぼくの人生の不幸の始まりが?」
「怪奇現象ですよ」
理解するのに数秒かかった。ここまで話して、最初も最初のエピソードにコメントされるとは思わなかったのだ。
「それは、時期的にはそうだけど」
「不審な点があるのです」
怪僧が語って聞かせたことは端的だった。他の参加者の間ではグリーンさんはとんでもない遅漏で、粘着質な性行為を好むという話であり──なぜこいつはそんなことを知っているのかという疑問が湧いた──あなたの話とは正反対である、何かがあるに違いない、ということ。
殴って吐かせることにした。
手頃な空き部屋に潜み、デイヴィッドを引きずり込む。もちろん抵抗してきたが、所詮はジムで鍛えただけの筋肉。本気の殺意の前には役立たずだった。
真実はつまるところ、「愛のないセックスで伝染する」ということだった。
デイヴィッドは「お前も誰かを捕まえてやりゃいいんだよ」という最悪な捨て台詞を吐きながら、ぼくの手が止まった隙を衝いて部屋を出ていった。
けっこう傷ついた。傷ついてから殴ったらいい憂さ晴らしになったのに。デイヴィッドはもう逃げてしまった。呆然としているうちにまた淫猥な水音が聞こえてくるのにも堪えた。プロムスの日に起きたことを思い出してぼくは布団を被り、呻いた。
次の日、ぼくは何をする気にもなれなかった。卑猥な音も垂れ流されているうちに慣れてしまった。
キャンプに来て以来封印していたスマートフォンを取り出して、ログイン情報が残らないSNSを選んで眺め、ネットフリックスで有益なのかただ単に扇情的なだけなのかわからないドキュメンタリーを見て過ごした。冷蔵庫で残り物でも漁ろうと、深夜にカフェテリアへ行くと、怪僧がひとりで読書をしていた。
キッチンで物音を立てはじめたぼくに気付くと、彼は本を閉じてカウンターの前に立った。
「首尾はどうでしたか」
「最悪だったよ」
よく知らない他人だから素直に話せることというのはある。ぼくは手短に結果を述べながらキッチンを物色した。
怪僧はふむ、と髭に覆われた顎に手をやってから、道案内でもする調子で「それならその呪い、私が貰いましょうか」と言って寄越した。
棚の奥にあるパンを取り出すのに苦戦しているふりをして聞き流そうとした。しかし袋を持ってカウンターに戻ると、同じことを今度は目をしっかり合わせながら言ってきた。
「憑き物を引きずり続けるのも嫌でしょう」
「それはそうだけど」
そんな誘い方をされても気持ちが盛り上がらないことこの上ない。過去の男やデイヴィッドとは、真逆だった。どこもかしこも隠された肌。長い髪。長い髭。全くタイプではない。
「うつ伏せになって、スマートフォンや雑誌を見ていても構いません」
まるで手術か美容院の言い振りだった。
「あんたはどうするの。多分呪われるけど」
「考えがあります。それに、あなたが苦しみ続ける道理はないでしょう」
結局、承諾した。よくよく考えれば、この機会を逃したらデイヴィッドのようにファック&ゴー方式で罪のない他人になすりつけるしか自分が猥褻BGMから逃れる方法はない。
あとで部屋で落ちあうことにして、サンドイッチを食べ終えてから部屋に帰った。シャワーを浴びている間に承諾してよかったのだろうかと考えてしまい、気付けば普段の数倍の時間を掛けていた。
念の為持ってきていたツルバダを飲んで、さっきのドキュメンタリーの続きを読みながら待っていると、ドアをノックされる。
ドアを開けると普段通り長衣を着た男が現れる。違いがあるとしたら髪を下ろしていることくらいだろうか。
流石に本当に施術を受けるだけになるというのも嫌だったので、とりあえずキスくらいしておくかと思った。
背伸びしないとキスができない。男はされるがままに唇を受け入れていたが、しばらくすると困惑したような表情で顔を離した。
ぼくがベッドの上に登ってアンダーシャツとパンツを脱いでいる間、男はそばで突っ立ったままこちらを見下ろしていた。
「あんたは脱がないの」
「それだと性行為になってしまいますよ」
「いや、もうなってるし……その格好のままされる方がなんか、いやで」
長髪といい服といい、完全にセックスカルトの首長だった。
一瞬の躊躇ののち、男は首元に手をかけて、長衣の留め金を外した。
あらわになった身体を見てぼくはあとじさった。
兵役にでも就いていたのだろうか。全身くまなく鍛え上げられ、薄い脂肪の下で筋肉がしずかに張り詰めていた。その上、えげつないタトゥーが入っている。背中にはロダンの地獄の門。腹の方には進化の図。身体中に七つの大罪を表す文字のそれぞれが散らばっている。
男は気まずそうに身じろぎし、それからゆっくりとベッドに登ってきた。
その後の一時間足らずで今までのセックスで体験したことのないことがいくつも自分の身体に起きた。話せるようになるまでに時間が掛かった。
「あんた、セックスカルトのファーザー? それともエスコート?」
そう訊くと、ぼくの頭の下で肺が膨らみ、息を詰まらせる気配が伝わってきた。
「プロレスラーです」
「え……なんかごめん」
「いいえ。よく勘違いされますから」
「もしかして……リングネームは〈ラスプーチン〉?」
返事がなかった。おそらく図星だったのだろう。気まぐれに〈ラスプーチン〉がどんなものかと検索して調べたら、最低最悪のヒール役として悪逆の限りを尽くしていた。動画を再生すると、恥ずかしそうに呻いていた。
「リングネームじゃない本当の名前、教えてよ」
「……ラース」
「冗談でしょ?」
それから本当に怪奇現象が起きなくなった。
カフェテリアで昼食を運んでいるとデイヴィッドがやってきて、さも当然のように隣に座ってきた。
「さっぱりしただろ。見違えるように元気になった」
無視してヴィーガン仕様の中華ランチを食べていると、向かいに座り直してきた。仕方ない。箸を置いて応対してやることにした。
「何のつもり?」
「誰に伝染したんだよ」
「関係ないだろ」
「大アリだね。だって、また罹りたくないし」
不可抗力とは言え既に二人と寝てしまった自分のことは棚に上げて、本気で呆れ返ってしまった。マジで何しに来たんだこいつ。
「心配せずとも、君とは絶対に寝ない人だと思うよ」
〈ラスプーチン〉はカミングアウトをしていない。SNS等でそういった憶測が流れているわけでもない。デイヴィッドが彼の正体を知っているかどうかはともかく、情報の取扱いには慎重になった方がいい。
食欲が失せてしまったので、食べかけのお盆を持って立ち上がった。しかしデイヴィッドも立ち上がり進路を塞いでくる。
「なあ……今晩空いてるか」
「本気で言ってるの」
デイヴィッドは柱に腕を付いてこちらを見上げたまま、アクアフレッシュのCM男優のようににやりと笑い掛けてきた。
ぼくは冷たい一瞥を与えたあと、デイヴィッドの睾丸をまっすぐ蹴り上げた。キック・ボクシングのプログラムで習った通りに。膝を折って悶絶する横をすり抜けて食器を返しにいったあと出口で振り向くと、デイヴィッドに不快な目に遭わされた男女たちがついでとばかりに睾丸を蹴り上げているのが見えた。
トレーニングウェアに着替えようと居室に向かうと、角からラースが現れた。
あの〈施術〉以降、話していなかった。おざなりな挨拶を交わしたあと、何を言えばいいのかわからなくなった。ポルターガイストのことを尋ねると、心なしか得意げに口髭を揺らした。
「はい。もう聞こえません」
意外な答えだった。
確かに考えがあるとは言っていたけれど、こんなに早いとは思っていなかった。下山してからとかではなく、このキャンプの中で、相手を見つけたということらしい。
「そう……じゃ、また」
それだけ言って部屋に戻ると、ぼくはドアに背を付けたままへなへなとへたりこむ。
「ノー・セックス、イエス・オーガニック……」
畑に異変が起きている、というのを聞いたのはそれから数日後のことだった。
織布のプログラムで麻を糸により合わせようと悪戦苦闘していた。プログラムを中断してぞろ畑へと向かうと、麦畑に人だかりが出来ていた。人の肩の間から伺い見ると、金色に輝く穂を垂れて並ぶ麦が見えた。
二週間前くらいにほんの小さな苗を植えたばかりだ。こんなに速く成長するはずがない。
とんとん、と肩を叩かれる。振り向くとラースが後ろに立っていた。あとについて少し離れたところに下がると、「あれは、私のせいです」と切り出してきた。
「どこかから麦穂を運んできて植えたってこと?」
「いいえ。土です」
「土……?」
「愛の介在しない生殖。それは多くの動植物にとっては当たり前のものです。
あなたの話を聞いて、植物の受粉を促したり動物の発情を促してきた存在が、何かの間違いで人間に取り憑いてしまったのではないかと思いました。私の勘が正しいならば、「それ」を還すべきところは大地なのだろうと」
何も理解できなかった。
地面に向かって腰を打ち付けているラースの姿を想像してしまい、慌てて振り払う。トラウマになりそうだ。実際にどうやってそんなことを可能にしたのか、知りたいとは思わない。
刈り入れが始まるようだった。農地の管理者が台車で運んできた鎌を持って、参加者たちが畑へと散らばっていく。
鎌を受け取り、向かい合わせで麦の茎に刃を入れながら、ぼくたちは幾度となく微笑みを交わした。