80話
その質問には、ユーリよりも先にカリムが返した。
「チャイコフスキーだ。一応、こんなのでも目指していてね。だからこそ、いい環境で学ばせたいんだが……」
「チャイコフスキィー? それをこのピアノで出たい、と?」
その名前を聞き、なるほど、というようなニヤケた顔でサロメは、帰るのをキャンセルしてユーリに接近する。
「あんた、チャイコフスキーコンクール出場すんの?」
目の前で止まり、伺うように見上げた。少し面白くなってきた。
力強い眼力で、ユーリはその視線を押し返す。
「そうだが。なにか問題でもあるのか?」
そのためのブリュートナーの最上位モデル。環境だけでいえば最高のもの。
様々な事柄を頭の中でまとめ上げ、導き出した結論。確率で言えば八割。サロメは少しずつ答えに近づく。
「いーや、こんだけ立派なピアノ持ってんだから、なんか訳ありかと思ったけど、そういうことか、って思っただけ。チャイコフスキーを勝つためにブリュートナー、はいはい」
「? どういうことだ?」
帰ろうとしたり戻ってきたり、忙しいサロメに翻弄されつつ、ランベールはまだその結論に追いつけない。
ユーリと目での押し問答をしつつ、サロメはヒントを提示する。
「歴史のあるコンクール。ちょっと挙げてみ」
それを聞いたユーリがピクっと動いたのを確認した。
一方、言われた通りにランベールは有名かつ歴史のあるものを挙げてみる。
「となると、ショパン、エリザベート、そしてチャイコフスキー……」
と、ピョートル・チャイコフスキーの名前が冠されたコンクールの名前が出たところで、サロメは頷く。
「そう。ピアニストが、ショパンでもエリザベートでもなくチャイコフスキーを目指す。まぁ、時期的なものもあるんでしょうけど、チャイコフスキー以外に出る予定ある?」
一切逸さなかった視線を、ユーリは目を揺らして外した。
「……ない」
勝った。いや、別に意味ないけど。そんなこっそりと勝負を仕掛けていたサロメは納得する。
「やっぱね。あんたは『ブリュートナー』でコンクールに勝ち上がりたい、違う?」
核心を突かれたユーリは、今度はランベールに向けて問い詰める。
「おい、なんだこいつは」
こいつ、とは目の前の、歯に衣着せぬ人物。
そんな自分を飛ばして会話が進められているが、話の中心にいたいサロメは、気にせずさらに進めていく。
「フランスの貴族様が、ドイツの老舗ピアノを使い、コンクールで勝つ。つまりはそういうことよ」
点と点が結びついてこないランベールは、少しイライラしてくる。
「全然わからん。もったいぶるな。早く言え」
はいはい、とサロメはあやしながら少しずつ紐解く。
「ショパンでは使えるピアノのメーカーは、四社でほぼ決まり。スタインウェイ・ファツィオリ・ヤマハ・カワイ。エリザベートはほぼスタインウェイのフルコンで決まり。じゃあチャイコフスキーは?」
チャイコフスキーは……そう考えた時、ランベールの頭に浮かんだものがある。基本はスタインウェイなどだが、たしか審査員の人物がとある国でコンサートを行った際に使用したメーカーで、初めて聞いたメーカーだったが、かなりいいと話題にした。その結果。
「……創業一〇年程度の中国のピアノメーカーが参入したことがあった。それが——」
「チャイコフスキーコンクール。つまり、このおぼっちゃまは、どうしてもブリュートナーで勝ちたい理由があるってことでしょ。そんで、調律もできるピアニストってことで、注目を浴びたい、と」
「……」
そのサロメの見解は当たりなのか、当のユーリは無言。つまり肯定。
長江というメーカーのピアノ。その審査員が、よければコンクールに出してみないか、とそのメーカーの社長に軽いノリでオファーを出したことがきっかけで、使用された。かなり他のコンクールに比べて、緩い基準だ。




