表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Réglage 【レグラージュ】  作者: じゅん
ザウター『オメガ220』
72/317

72話

 急いで立ち上がり、向かおうとしたブリジットだったが、一瞬思い詰め、サロメのほうへ向き直る。これから先、プロになれたとして。自分の『音』を追い求めるとして。その姿を想像する。その時、どんな音を響かせているか。


「……強いて言えば……もう少し倍音を効かせたい……かな。ショパンなら、やっぱり歌うような響きのある感じで弾いて——」


「あなたはどうしたいの?」


「え?」


 自分の理想とするのは、ショパンをより美しく。だが、このサロメという少女は、それは違うという。勇気を出して要求をしたブリジットだったが、なにか間違えたのか、と目が点になる。


 こういうことでしょ、とサロメは目でルノーに合図を送った。


「ショパンの正しい弾き方はショパンにやらせればいい。コンヴァトの講師は、今の段階だと楽譜通り弾けるよりも、未来の可能性を感じる子にレッスンをつけることが多い。それにこの残響。真面目に弾くより、もっと遊びなよ」


 大きく手を広げて、教会全体をサロメは示す。本当のあなたの音はどれ? あたしなら、全てを叶えることができる。ショパンなら、じゃない。あなたなら、この譜面をどう弾きたい? そもそもショパンとは楽器そのものが違う。


「……」


 押し黙るブリジットだが、ひとつの事象が頭をよぎる。それもショパン。


 えてして、独自の解釈というものに賛否が巻き起こるのは、自明の理である。かつて、世界で最大といって過言ではないショパンコンクールにて、大事件が起きた。


 イーヴォ・ポゴレリッチ。


 この名前に反応する人も多い。技術だけでいえば、おそらく世界でも一〇の指には入るであろう実力者。だが、あまりにもショパンの曲をアレンジしすぎて、コンクール向きではない、の烙印を押された男。だが不思議と、彼のピアノには惹きつけられるものがある。


 まるで『天使が舞い降りた』とも称される、弱音の心地よさ。音の柔らかさや響きも極上。だが、ピアニッシモをフォルテッシモに、レガートをアパッシオナートになど、時折真逆の演奏する独自の解釈。それを良しとしない審査員が、予選で落としたのだ。


 それに対し、当時同じく審査員を務めていたアルゲリッチが、彼の実力を正しく評価できない他の審査員に激怒し、降板した、通称『ポゴレリッチ事件』。コンクールとなると、吉と出るか凶と出るか、運によるところが大きい。


 だが、未来の自分を想像したブリジットは、覚悟を決めて賭けに出る。

 

「……ソコロフみたいな、キレが欲しい。この残響に負けないためには、歯切れのよさが必要」


 グレゴリー・ソコロフ。『神』『幻』とまで崇める人もいるほど、その音の粒立ちはまるで真珠のように力強く、それでいて柔らかい。二〇世紀を代表するピアニストのひとりだ。


 受け止め、サロメは笑う。


「あれは真似できるフォルテッシモじゃないんだけどね。ま、となるとアクションをいじるか」


 またもキャリーケースを開け、針を取り出す。弦を叩くアクションハンマーの弾力や固さを調整するものだ。調律だけのつもりだったが、整音、つまりアクション部分を改善することで、さらに望み通りのタッチに近づける。当然、時間はかかる。


 残り時間を腕時計で確認したブリジットは、驚き慌てる。


「今から? もうあと少しで始まるのに?」


 あと三〇分もない。軽く弾いて感触を確かめる時間を考えると、二〇分ほど。調律に詳しいわけではないが、そんな急ピッチで変えていいものか、気が気ではない。


 だが、当のサロメは気にせず、頭の中で構築し直す。時間のせいにして調律をサボろうとするなら、その人は調律師なんて職業は辞めたほうがいい。そう考える。


「全く……」


 ソコロフのようなスタッカート。鍵盤のレスポンス。倍音や和音の響き。全て頭に入っている。ショパンを一度崩し、さらに再構築する。そのためのピアノ。


「誰に向かって言ってんの?」

ブックマーク、星などいつもありがとうございます!またぜひ読みに来ていただけると幸いです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ