317話
まるでシューマンが憑依したかのように、それでいて自分という個性を出すように。子供と大人の中間である、今しか弾くことのできない『鬼ごっこ』を聴衆の前で。三人であろうと千人であろうと変わらない。出せる全力を。カルメンが音を紡ぐ。
「……すごい」
弾き始めると、そんなハイディの感嘆の息が漏れる。もちろん、スタジオで弾いているのを見たことも聴いたことはある。動画配信者が撮影しているところにお邪魔させてもらったことも。
だが、目の前で今行われている演奏は。自分の中に浸透してくる。耳だけではなく、全身で音を受け止めている。明らかに技術が違う。世界一、と豪語していたが、おそらく。おそらくだけど。そういう世界に向かう人の音楽。最初は変な人だなと思っていたが、認識が改まる。
演奏が終わると、圧倒されていたのは店員も同じ。ちょっと弾いてみよう、というレベルのピアノではない。
「第三曲『鬼ごっこ』。聴いていて楽しくなるよね。しかし、すごいね。すごい、うん」
働いているからといって、ピアノに完全に精通しているわけではない。が、何人も聴いてきたが今までここで試弾した人の中でも、この少女がトップレベルだということはわかる。たった三十秒でも。わかってしまう。それくらいに心に突き刺さった。
同様に圧倒されたハイディ。心臓が速い。
「鬼ごっこ……」
自分が追いかけっこでもしたのだろうか。そんなドキドキ感。ピアノの音、それだけで。違った景色を見た。
「で、どう?」
その弾き心地。サロメが確認をする。当たり前だけど。認めたくはないけど。このピアノの長所を最大限まで引き出す調律。透き通るような高音も。重くのしかかる低音も。自由自在。変幻自在。ここまでの調律師なんて。相当に限られてくる。




