295話
「いや、なんでよ。なんのよ。はい、自己紹介」
一から伝えるのも面倒なので、あとは任せることにしたサロメ。なにをどう勘違いしたらそこにたどり着く。
より暗さを増してきた通りには、車のライトや店の灯りが灯り始める。それに照らされるハイディは冷えた手を差し出した。
「ハイディ・ゼナティと申します。ピアノスタジオを経営しています」
少しずつ、自分だけのピアノを選ぶことができる。今日買うかはわからないが、それでも着実に。一歩ずつ。
別に両親がすぐにスタジオを譲るとか、そういうわけではないし、自身もすぐに継ぐつもりはない。いつか、というぼんやりとした認識。それでも、高価なピアノというものを選んでスタジオに置いていい、というのは変に興奮してくる。
もしそれがいいピアノとして口コミなどで広まって、予約困難になったり売り上げが上がったりしたら。両親の役に立てたら単純に嬉しい。それが近づいている。
手袋を外してカルメンは握手に応じる。
「カルメン・テシエ。のちの世界一のピアニスト」
確定した事実。本来なら今回の呼び出しもお金をとってもいいはずの。
なにやらややこしい人物を引き当ててしまったかも、と顔を顰めるサロメ。プライド高そう。でも。
「今は違うのね。素直」
なんとなくだが、自分にはピアニストのオーラ的な? ものでその人物の実力やら将来の期待値を計ることができる。たぶん。それによると、相当に可能性は感じるものがある。
とはいえ。あの花屋の店主ほどの底の見えなさはない。単純に、ただの良質なピアニスト。充分充分。
歯向かおうとはカルメンも思わなくはないが、冷静に自分の立ち位置も把握できている。一線級のプロには当然ながら及ばない。それに実績がない。
「コンクールで優勝もしてないから。それにベルとか。ブリジットとか。ヴィズとか。ライバルも多い」
切磋琢磨する友人達ではあるが、明確にそこは線引き。いつか、もしそういった場で相見えたら。倒すべき相手になる。倒す。




