291話
「スタジオ経営はビジネスですから。自分が弾ける必要はありません。私の両親は多少は弾けますが、それでも趣味レベルです」
淡々と。事実だけをハイディは告げる。不思議なことに、一度もピアニストを目指したことはない。自分には才能が、とかそういうものでもなく、なんだったら譜めくりのほうに憧れるくらい。とはいえあれは譜面を読めないとダメなので、それも早々にリタイア。
ここまでのことを頭の中で整理しつつ、それをサロメは言葉にする。
「ちょっと待って。じゃあ今日はなにを基準にピアノを選ぶつもりだったの? あんたが音で気に入ったもの、とかじゃないの?」
ピアノは高額。最終的にはその人の感覚的な部分に頼るとはいえ、適当に選ぶ人は普通いない。弾かないとしても、この子の親はなにを考えているのだろうか。スタジオ経営ってそんな儲かるの? 投資する部分も多いから、結構ギリギリだと勝手に思っていた。
「私には音の良し悪しは、よほど違わない限りわかりませんから。調律師の方はピアノを弾けるのでしょう? 弾く側に立った時と調律する側。両面でいいと思ったピアノでお願いします」
おんぶに抱っこだということは、ハイディにもわかっている。だが、調律師とはそういうのが仕事のはず。ピアノに関すること。それならば頼れるところまで頼るべきだと考えているが。
なんとも形容し難い固い表情でサロメは吐露する。
「……あたしは弾けないわよ、ピアノ」
「どうしてですか?」
濁りのない目でハイディは問う。ピアノならば調律師に聞けと。そう両親から。なのに。
はぁ、と大きなため息を吐きながらサロメは、自身の予感の正しさを証明できた。やっぱり面倒じゃない。
「どうしてですか、って。あんたも弾けないじゃないのよ。調律師は弾けるに越したことはないけど、弾くことじゃなくて調整することが仕事。『牛飼いと森番』の話知ってる? 各々が自分の仕事をすることが大事なのよ」
いわゆる『餅は餅屋』ということ。それぞれの仕事は、たしかに専門に任せるのが一番。だからこそ。弾けない。弾くことが仕事ではないから。




