287話
……なにが起きているかわからない。トリニティは過呼吸気味に脳に酸素を送る。
「…………えっ? あれ?」
今のこの状況はなんだろう? 思ってたのと違う。予定していたものと。違う。今頃は契約の話になって、そして決定してそのことをSNSで発信したりとか、なんかそういう手はずだったわよね、私? あれ?
そもそも今日は調律で呼ばれただけ。もう仕事は終わった。男としてはさっさとスイーツでも買いながら帰りたい。残業などしないタイプなもんで。とりあえず。
「えーと、なんでしたっけ? 俺のことを? 専属の調律師に? プロとして? まぁ、手短に。簡潔に。言っておきますか」
呆然と座ったままのトリニティに対し、男は見下ろして邪悪な笑みを浮かべた。
「断る。そんな面倒なことやってられるか。そんじゃ、調律の代金のほうよろしくー」
とだけ残し、さっさと帰宅の途につく。ソーホーにはいいレッド・ベルベット・ケーキを売っている店がある、と聞いた。調べてみよう。やはりニューヨークには色々と美味いものが集まる。住むところではないが、たまに来るくらいがベスト。
金とか地位とか。そんなものはどうでもいい。いや、やっぱり金は欲しい。けど地位など興味はない。持ったところでなんになる? 余計なものは重くなるだけ。歩くだけなのに鎧を着込む必要あるか? なぁ、そう思うだろう? お前も。




