286話
「…………は?」
なにが起きたのか。トリニティは目を見開いたまま静止した。荒々しく、強く感情を表現した『仮面』が。眠……く、なる……? つまらない、と言った……?
目元を拭うと、ポケットに手を突っ込んで男はピアノに近づく。
「おっと、失礼。理解できませんでしたか? オリジナリティもない、譜読みも浅い二流の演奏だった、ってことですよ。唯一よかったのはピアノの調律でしょうかね。ユニゾンの美しさ。さすが俺。さすがベヒシュタイン。ピアニストの足りない技術でさえも芸術に昇華させてしまう」
ピアノはハンマーが弦を叩いて音が出るが、その後はただ減衰していく楽器。ただ伸びていけばいいというものでもなく、ペダルを駆使して音を重ねていくわけではあるが、相乗効果でさらに輝かせていく唯一無二の混ざり方。それがベヒシュタイン。ゆえに、性能が高いピアノほど調律が難しい部分がある。
それを手なづけてしまう俺。カッコいい。
こめかみを押さえながら、今の状況を把握しようとするトリニティ。断られた。断られた? 私が? 私の誘いを? この男が? 男の分際で?
「…………あなたは、なにを——」
「いるんですよねー。実力のなさをピアノのせい、調律師のせいにするピアニスト『みたいな』人。まわりからチヤホヤされてきただけなのに、自分の才能とか勘違いしちゃってる可哀想な人。あー、目の前に」
たしかに今までにこのピアノを調律したヤツらもたかが知れるが、この女もそう変わらない。これが人気が出るなんて世も末。男はこれからのクラシック界というものの未来を嘆く。まるでピアノを装飾品かなにかであるかのように。これだから勘違いのピアニストは嫌いだ。




