284話
「はい。中々信頼の置ける調律師の方にお会いできなくて。ほら、私って容姿でも売っていくつもりではありますけれども、実力が伴わないとすぐ忘れられてしまうでしょう? ピアノがあってこそ、の私。そういった意味では、私に一番合ったのがあなた、かなと」
『ただのモデル』『ただのピアニスト』だけでは薄い。自分なりの強みをトリニティはより強化したい考え。そういった意味でこの調律師は当たり。少し弾いただけでわかった。ひとまずキープしたい。まぁ、今後より良質な調律師に出会えたら切り捨てればいいわけだし?
はっはっは、と大袈裟に笑い声をあげながら男は、
「恐縮です」
と、浅めに頭を下げる。ペコっと申し訳程度に。
その様子。もうひと押しか。続けてトリニティはいつものことのように。慣れた口ぶりで大胆にその気にさせていく。
「フリーでやってらっしゃるんでしょう? どうかしら? 安定した収入も保証しますし、名ももっと売れますよ」
今までにオトせなかった男などいないのだから。金も地位も手に入れることができる。一介の調律師にとっては喉から手が出るほどに欲しいものなんでしょう? ピアニストと違ってたいていは日陰に生きているのだから。たまには水を与えて『あげる』のもいい戯れ。
彼女は音楽院以前、それこそエレメンタリースクールの頃から、自分というものがわかっていた。男は従えるもの。それができる私。世界とはそういうもの。そうすることが正しい。ずっと。これからも。
ところで、と腑に落ちない点が男にはある。
「先ほどの演奏は」
調律を確かめるための試弾。その曲について。試弾はわりと簡単な曲を選ぶことが多い。じっくりと音を確認するためのものなのだから。




