283話
ピアノというものはメーカーによって調律にも違いがあり、さらにその中でも大きさによっても、そして製造には職人の手作業によるところもあり、同じものでも微妙な違いが出てくる。置かれた場所によっても。全てのピアノに共通する調律など存在しない。見極める力。経験と判断力。
この男は。実のところ大した調律をしたわけでもない。簡単な整調、調律、整音。素材がいいならなるべく余計な手は加えない。定期的な調律は必要だが、やりすぎても調律師のエゴが出てしまう。あくまで主役はピアニスト。その人物がどう弾きたいか。
「それはよかったです。弾き手に寄り添うのが一番大事ですから」
その言葉通り、このベヒシュタインは『いじられ過ぎていた』。ゴテゴテに化粧をされており、それでもこのメーカーゆえにそれなりに美人ではあったが。まずは化粧を落として、その後ナチュラルにメイクしてあげただけ。これくらいを望んでいるはず、と見極めていた。
お互いにはにかむ。朗らかな空気感。そして口火を切るのはトリニティ。
「それで、なんですけれども」
「?」
一応、自分としての仕事は終わったと男はスイッチを切っていた。そこになにかしらの提案。クエスチョンマーク。
「今後もプロとして活動していくに関して、専属で調律をやってくださらないかしら、というお誘いです」
柔らかで淑やかな言葉の端々に隠れる自信。いや、隠そうとしない自信。トリニティという人物は、欲しいものはなんでも手に入れてきた。ピアノも。車も。ついでにこの流れで腕のいい調律師も手に入れてしまおう。まだ彼女の見据える高みへの途中。いずれは政界へ、なんて野望も。
窓から外の通りを見下ろしていた男だったが、驚いたような表情で振り向く。
「私が、ですか? 専属の調律師として?」




