282話
スッ、と静かにタブレットの楽譜を閉じた女性は、細くしなやかな指を柔らかな唇に当てた。
「音楽院時代の友人がいまして。その方からの紹介です。とても素晴らしい調律をしてくださる調律師さんがいらっしゃると」
名をトリニティ・ソネットという。美貌とスタイルを活かし、モデルとして活躍する彼女は、同時にプロのピアニストでもある。リサイタルやコンサートのチケットは完売が続き、オークションなどで高額に取引されるほど、男女に人気のあるインフルエンサー。
実家が富豪でもあり、ここは彼女の所有する自宅のひとつ。他の家にはスタインウェイやベーゼンドルファーなどが置かれ、弾きたい気分によって場所を変える。今日はベヒシュタイン。そしてドビュッシーは彼女が特に好きで得意とする作曲家。
ゆっくりと靴音を立てながら室内を男は歩く。全体を見回し、深く息を吸い込んだ。
「いやー、出張買取から運搬から、なんでもやらせてもらってますよ。ありがたいことです」
彼はピアノの調律をメインに働いている。調律師の世界はわりと狭く、数も減ってきている。そのため東西南北様々な場所に飛び、個人宅やらホールやらとわりと忙しい毎日を送らせてもらっている。今日は西のほう。忙しさを象徴するかのように、着ているスーツは若干くたびれ気味。
その諧謔的な発言に、トリニティは微笑みを浮かべ、弾き終わったばかりのピアノの感想を述べ始める。
「ふふっ。それでこのピアノですけれども、とても素晴らしいです。タッチの軽さから音の響き。私の表現したいことをダイレクトに余すところなく表現できていて。こんな弾きやすいピアノ初めてです」
今までの調律してくださっていた方々はなんだったのでしょう、と思えるほど聴き違えた音質。もちろんベヒシュタインなのだから、基準を遥かに超えてはいたが、そんなものはもはや過去のもの。さらに一段階以上はそれぞれのパラメーターを引き出している。




