281話
電柱や電話線など、景観を損ねるものは全て住宅の裏手にある裏道を通すように工夫を重ねられており、閑静で高級住宅地として知られるそのエリア。広い芝生付きの庭、外壁にはイギリス積みのレンガ、玄関などには白いドリス式円柱などが配置され、古さよりも歴史を感じる一軒家。
内部ではヘリンボーンの硬材フローリングは絨毯で覆われ、壁にはオーストリア製のタペストリー。オークのテーブル。高級なカルティエ製像。天井にはクリスタルのシャンデリア。窓からは柔らかな木漏れ日が差し込む。
夜間は外は氷点下にまで落ち込む季節。それでもここは温度・湿度などを一年中一定に設定された部屋となっている。
「私のことはどこでお聞きになったんですか?」
男はグランドピアノの傍に立ち、今まさに演奏を終えたピアニストに声をかけた。その曲はドビュッシー作曲『仮面』。非常に激しく熱情的な曲であり、この曲が表現するものは、喜劇ではなく人間の存在の悲劇。人間という不可解な存在の、複雑な心情そのものを曲にした、と評する人も。
そしてピアノ。ベヒシュタイン。ドイツはベルリン生まれの世界三大ピアノメーカーのひとつであり、一度のコンサートで何台も弾き潰したことでも有名な、フランツ・リストの激しい演奏にも耐えられたことでも知られる。その中のコンサートグランドピアノ『D-282』。
清流のような透明感のある音が一切のブレもラグもなく、力強くピアニストの感性のままに紡がれる。作曲家のドビュッシーは「ピアノ曲は全てベヒシュタインのために書かれるべきだ」と残すほどに惚れ込んでおり、彼の曲を演奏するのに最も適しているメーカー。
除響板と呼ばれる装置や支柱の間隔など細部にこだわり抜き、震動の反射と響板全体の振幅を緻密に計算し尽くした結果の産物。




