277話
心と共に離れていく足を止めてハイディは背中で語る。
「だからこそ信頼できる方にお願いしたいのです。申し訳ありませんが、私は信頼できません」
自分が信頼できないピアノ。それをスタジオで貸すことなどできない。子供のようなものなのだから。いや、まだそういうのいないけど。子供、という感覚も勘でしかないけど。
くっくっく、と声を上げてサロメは笑う。そして同意。
「正しい。全面的に」
「あのなぁ……」
今まででも一番に近いくらいの旗色の悪さをルノーは読み取った。まさかハイディがサロメと同意見になるとは思っていなかった。むしろパリ屈指の調律技術を持つ人物というものに惹かれていたくらいだった。それがあっさりと。
スタジオを経営している彼女の両親とは、始めた頃からの知り合い。心のどこかで「まぁ、ずっと続くだろう」という慢心がなかった、とは言わない。言わないが、こんな形で終わるとは。いや、ひとまず向こうに事態を説明してみるか。まだ全権は両親にあるはずだし。取り消しは効くはず。
なんだか自身の範疇の外で繰り広げられているようだが、当然サロメにはどうでもいい話。
「信頼ねぇ。あたしに言わせればそんなもの必要ないわ。あたしは望まれるピアノに仕上げるだけ。信頼なんか知ったことじゃないっての」
「一蓮托生、ではないと?」
ピアノに対する心構え、のようなものが全く違うことにハイディは驚きを隠せない。調律師とピアニストは二人三脚で音を作り上げる。なんでも言い合える仲こそが理想。だと思っていたのに。この人物は違うと。
うげ、とサロメは苦い顔。
「当然でしょ。そこまで責任なんか持てるかっての」
ピアニストが欲する音に仕上げること。それが調律師。結果さえよければ過程などどうでもいい。「頑張った」「全力でやった」など関係ない。頑張らないで適当にやっても、求められた音にできればいいのだから。不要なものは出来るだけ取り外したほうがほら。動きやすいでしょ?




