276話
数秒の睨み合い。だが、ハイディとしても納得がいった模様。
「わかりました。では今後のスタジオの調律は違うところに——」
「待て待て」
経営者としてルノーは恐ろしい発言を見逃すことはできない。調律を違うところに。それは売上にも当然関わってくることで。
調律というものは電子ピアノなどの調律が不要なものが幅を利かせるようになってから、依頼の数はどんどんと減り続けている。もちろん良い点もあるのだが、真の音を追求するならばやはりアコースティックピアノ一択。定期的な調律は不可欠。それらが他に奪われると?
ハイディとしても、長年お願いしているらしいアトリエとずっと付き合っていく予定だったが、考えを改めなければいけない時がきた、と判断しても仕方ない部分がある。
「なにか? ご本人が嫌だと言うのなら、無理にやっていただこうとは思いませんが。実力はピカイチ、という話を聞いて伺ったまでです。残念ですが。ではさようなら」
慇懃にカーテシーを行い、用も済んだのでこの場から離れようとする。次のピアノ専門店にお願いしてみるだけ。少し歯痒い思いはあるが、それも人生。仕方ない。
「はいはい、気をつけてね」
目の端に欠伸の涙を溜めながらサロメは手を振って見送る。これで安寧は保たれた。もうひと眠りしよう。
なんてことをルノーは見過ごすはずもなく。肩を落としながらじっくりと説得にかかる。
「あのなぁ。ピアノを購入する時は調律師に聞け、ってのは我々では常識だろう。親身になって相談できる。高い買い物だからな」
本来であれば自分が付き添うべきなのだろうが、仕事の関係上そうもいかない。社長でありながら現役で各地を飛び回って調律もこなす。自分を贔屓にしてくれているピアニストや個人宅の顧客。そういったものの対応は他に任せられない。
パリの他のピアノ専門店のオーナーなどに知り合いはいるが、そういった人は一線は退いて経営メイン。だが生涯現役を貫いているため、高音が聴こえづらくなったりといった問題が起きないうちは調律をやめるつもりはない。




