271話
「いやよ、面倒」
まるで呼吸をするように。パリ三区にあるピアノ専門店〈ルピアノ〉の調律師サロメ・トトゥは拒否から入る。彼女は基本的に働きたくない。働きたくないのは全人類に共通するところでもあるだろうが、彼女ほど乗り気にならないと働かない人物もいない。興味。それだけが駆り立てる。
つまりは駆り立てることができなかった、その店の社長であるルノー。しかし顧客からの要望を最優先するのも社長の仕事。ソファでゴロゴロする少女に向かって冷徹に言い放つ。
「これも調律師の仕事。やらないならアップライトの調律仕事もまわすぞ」
できる限り従業員の希望に沿うのも社長の仕事。ダラける従業員のモチベーションを上げるのも。
ピアノは古典ピアノなどの特殊なものを除けば、大きく分けてグランドとアップライトの二種類ある。サロメ・トトゥという人物はグランドピアノしか調律をしない。もちろんアップライトができない、というわけではない。単にやりたくないだけ。
彼女の個人的な理由によるものだが、店には社長含め数人調律師がいることもあり、サロメには基本的にはグランドが振り分けられている。なのでグランドピアノに関することで文句は言えないはずなのだが、それでも食指が動かなければ断る。今回の依頼とは。
「で、もう一回説明するが——」
「やらないわよ。なんでピアノの購入に付き合わなきゃならないのよ。この店のもの売ればいいじゃない」
彼女がもしフリーの調律師であれば、どこで購入されようとかまわないのだが、一応は所属しているわけで。それなのに他の店で購入する手伝いなど、売上から見ても普通に考えてメリットはない。
とはいえ、もちろんルノーとしても苦肉の策であることは間違いない。本来であれば〈ルピアノ〉のピアノを販売したい。が。
「様々なメーカーのものを置きたいらしいからな。スタインウェイやヤマハやらといった有名どころは全て抑えてあるとのこと。なにか掘り出し物の発掘に付き合ってほしいんだと」
今回の依頼者はパリ市内でピアノスタジオを営む人物で、この店に全ての調律を任せてくれているお得意様。そういう場合は柔軟に対応。




