265話
「もっと遊べ、か。俺にもない目標だ」
だが、心当たりがグラハムにはある。
「どういうこと、だと思いますか?」
答えが出そうで出ないもどかしさ。それが自分の答えになるのかはわからないけど。藁にも縋るようにブリジットは求める。
今から言うことは無責任で、適当なこと。参考になんてならないだろうが、グラハムは言うだけ言ってみる。
「コンクールは運も盛大に絡んでくるだろう。そんな俺の見立てだが、カイルなら……舞台が大きければ大きいほど。ミスが許されない状態であればこそ。あいつは『カッコいい自分』をイメージする」
なんて抽象的で。曖昧な。なんだそれは、と独白。だんだん恥ずかしさが込み上げてくる。
「カッコ……いい?」
なんとなく。まだ知り合って間もないけれど。この人は理論的な詰め方をする人だとブリジットは認識していた。だからこそ、頭が真っ白になる。
もうここまできたら、全て伝えてしまおう。呼吸を整えたグラハムは意を決する。
「ちゃんと弾けたことないような、難易度の高い曲。それを大舞台で弾けたら『カッコいい』らしい。聴衆も。俺も。教えてくれている先生も。全てがあいつの実験に付き合わされる。究極の自己中心」
付き合わされる俺の身にもなってほしい。なのにそんなあいつが誇らしくも思えるのは、自分が踏み出せない一歩を躊躇なく踏み出せるところが羨ましいから。羨ましいのか、と今気づく。
だが、それはそれでハイリスクであることはブリジットにもわかる。
「それで、結果は——」
「だいたい失敗する。オランダの女王即位記念祝典でも、予定していたプログラムを無視して、勝手に練習中の曲を入れる。理想の自分ならここで弾けるはず。そうとしか考えていない」
成功することのほうが珍しい。統計は取っていないがたぶん。それでも仕事が舞い込んでくるのだから、結果的にはオッケーといえばそれまで。だんだん「いつものか」と麻痺してくるし、聴衆もわかってくれているのだろう。
言っていることはわりかしめちゃくちゃなのだが、どこか話すグラハムは楽しそうでもあって。その空気感をブリジットも感じ取った。
「……なんというか、すごい、ですね」
勝者のメンタルってこうなのかな。自分はまだそこには達していないことは悟った。
もう一度、ピアノに向き合う。話す内容が自分の体に降り注いでいるようで、言ってみて初めてグラハムの理解が深まってくるような。
「ミスをしても死ぬわけじゃない。成功しても劇的になにか変わるわけじゃない。それでも。やらずにはいられない。そういうヤツのことを、人は天才と呼ぶのかも知れない」
百メートルを九秒台で走るとか。国の代表になるとか。オリンピックで金メダルとか。それもすごいし、目標を持つことも大事だけども。それよりも『今日の自分』をアップデートしていく人間が眩しく映る。




