228話
気持ちは痛いほどわかるが、ランベールも折り合いをつけることに必死。なんだか振り回されているその中心にいるのは自分な気がする。
「……ですが、今日はあなたはアトリエの一員なんです。教育係として、色々と教えてください」
間をとって監督しながら。それならとりあえずなんとかなりそう。はっきりとアレクシス・デビラートという人物の実力を知っているわけではないが、信頼はできそうな雰囲気はある。
停滞する空気感。そこにグラハムが歩み寄る。
「さっきそちらの人が言ったように、ピアニストは毎回使いたいピアノを選べるわけではない。協賛にピアノメーカーがあればそれを使わなければならないし、弾くホールも同様だ。どんなピアノに仕上がるか、楽しみにしている」
音の擦り合わせは本番当日、明日でいい。それまでゆっくりと体調を整え、準備することが重要。それだけ残し退場。しようとすると。
「わかります。同じメーカーでもタッチの軽さ、音の温度、響きの厚み、他にも色々と違う部分がある。一期一会だということ。しかし気になることが」
最後にランベールが聞いておきたいこと。今、この現状について。
踵を返した足を止め、背後を振り返るグラハム。やはり静かになると地下鉄のわずかな揺れが気になる。
「なんだ?」
「あなた達ほどになれば、専属の調律師がいてもおかしくないはず。置かない理由をお聞きしても?」
アメリカのピアノにこだわるのであれば、アメリカの音をよく知る調律師を引き連れていてもおかしくはない。むしろメーカー側やスポンサーなどが支援してもおかしくはないはず。ランベールには腑に落ちない。こだわりに差がある?
一瞬考えて前を向き直し、グラハムは背中で語る。
「決まっている、そんなレベルにないからだ。今日ここに来たのも、不安で仕方ないから、少しでも自分を安心させるために。リヒテルほどの技術と精神力、そして信頼関係があれば、こんなことは必要ない。本来なら、専属を雇うべきなんだろうがな」
いい調律師に出会ったことはある。音にも。だが、あまりにも完成されすぎた音であったため、自分達の音というものの『伸び代』を感じることができなかった。それが最高になってしまったような。彼らが求めるのは、実力よりも『可能性』。互いに上を目指せるような。
そして二〇世紀を代表するピアニスト、スヴァトスラフ・リヒテル。彼は一切の妥協を許さない完璧主義者で、少しでもホールに違和感や響きに満足しなければ、すでに完売してしまったコンサートを躊躇なく中止するほど。おそらくピアニストでも一、二を争うほどにキャンセルの多かった巨匠。




