203話
グランドとアップライトは基本は同じだが、当然ながら違う部分もある。縦に収納されることによって特にアクション部分。ここにロストモーションと呼ばれるものを取り除く工程が追加される。正しくできていないと『から』や『突き上げ』といったことが起こり、正常な動作ができない。
そしてボールドウィン。それもかなり古いタイプ。普通のピアノよりも整調が相当に珍しく難しい。『いわしバネ』と呼ばれるスプリングの種類は、非常に繊細な調整が必要とされる、上級者向けの整調。解体工程が多すぎるため、初見ではほぼ不可能な厄介モノ。
そのことを知っている男は、迷いなく必要な部分に目を向ける少女に寒気すら感じる。まだ一〇代半ばで達することのできないような境地にいることは明白。
「すごい自信だね。いや、確信か」
そうこなくっちゃ。いい意味での想定外。さてさて、どうなることやら。
おそらくこのピアノには、この男が一枚噛んでいるとサロメは予想した。反応や視線、全てが物語っている。
「……終わったらあんたが何者かだけ聞いときたいわ」
否定はしていたが、なにかしらこのピアノに関わっているはず。
まぁそうなるよね、という諦めを含みつつ、男は了承する。
「別にいいけど普通の人だよ。多分キミが予想するような面白さはない」
ドロップアクションを調律できる少女、ほどのインパクトなど持っているわけもなく。なんかちょっとだけ期待されているようだけど、それがハズレとなった時にどんなリアクションをされるのだろう。少し不安。
普段は立ち上がってピンを回すが、その位置すらもドロップアクションは低い。ゆえにイスに座って調律をする。ただそれだけなのだが、アップライトということもありサロメはなんだか落ち着かない様子。
「とりあえずやることはやるけど。方向性とかはこっちで決めちゃっていいのね。なんかあるなら今のうちに」
明確な依頼人もいない。誰がどんな作曲家をどんな風に弾くのか。そういったものがないため、万人受けする調律を。当然できるが、はっきりと言ってあまり乗り気ではない。ゴールが見えていないのに走らされているような。
ここはコンサートホールでもなければ、プロのピアニストが弾くような場所でもない。男としては誰でも自由に弾けるピアノを、できる限り気持ちよく提供したいだけ。
「いや、それも含めて頼む。いつも通りでいい。どんな音を目指しているのか、そこにも興味があるね」
そして自身の好奇心。なのでショパン向けにしようがバッハだろうがなんでもいい。そこまでこだわる人はここでは弾かないのだから。




